人と繋がりたいと離れたい
「寒いね」
「ほんと寒いね」
この時期、会社のエレベーターなんかで同僚と居合わせると必ず「寒いね」という会話になる。
ふと思う。
「寒いね」
「そんなことはないと思います」
そう答えたらどうなるだろう。
「寒いね」「ほんと寒いね」は予定調和的な会話だ。漫才の「もうええわ」「ありがとうございました」くらいの調和加減だ。
本当に寒いのかどうかを問う会話ではない。
話のネタがないというのもあるけど、ぼくたちはそのようにして同じであることを確認し合ってるのかもしれない。
ぼくはこのやりとりがあまり好きじゃない。
職場のデスクは、6人が3人づつ向かい合う形で並んでいる。このご時世なので、向かいの席との間に透明のパーテーションが挟んである。
パーテーションが入ると、向かいの席の人がなんだか遠い存在になったように感じた。
カフェで窓際に座っていると、窓の外を歩く人と僕との距離はとても近いはずなのに、窓を隔てることでなんだか遠く感じる。
それと同じなのだと思う。
この隔たり感に安心感を覚える。
6人がむき出しで空間を共にしている時より、パーテーションで区切られている時の方が居心地がいい。
横の席との間にはパーテーションがない。
どうか横にもパーテーションをつけてくれと思う。
人と繋がっているのが嫌なのかも。
「寒いね」「ほんとそうですね」
という同調的会話や、6人が空間的にひと塊になっている演出に居心地の悪さを感じる。
人と離れていたい。
一方で、最近ずっと人と繋がることを考えている。どうしたら、人と人は繋がっていけるのだろうか。
ぼくは人と深く関係を築くのが苦手だった。
「人が離れていく」という感覚が怖かったから、人に必要以上に近づかないようにしていた。
最近それでは寂しいと思って、人に近づくという行為を意識的にしている。
人と離れたかったり近づきたかったりする矛盾した感覚はなんだろう。
おそらく、人と「同じである」ことで近づいたと感じるのが嫌なのだと思う。人と「違うこと」を分かち合うことで近づきたいのだ。
そう考えると、
職場の朝礼や集合写真が苦手なのも頷ける。同じ行動や感じ方、思考様式であることを持って「一緒だね」と感じたくない。
ぼくはぼくであなたはあなたで、体も心も一緒になることはできないけれど、でも繋がっているよね。
そのような感覚を得たくて、ぼくは繋がりについて考えているのだと思う。
おしゃべり版もあります。
良かったら聴いてみてね。
これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!