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モンゴロイド6万年祭

企画屋の妄想がこのプロジェクトの出発点

私は一時、アジアの旅ばかりしていた。企画や広告企画を中心に仕事をしていた頃だった。仕事は順調に入ってきていたが、私たちの企画力が生かせる仕事は少なく、あらかた発注企業が絵を描いて、それをプランにまとめるようなことが多かったのだ。そこで、企業からのお仕着せの発注仕事ではなく、私たちの企画力を世に訴えることができるインパクトのある自主企画に取り組んでみたいとずっと考えていた。アジアの旅は、そのためのヒントを探す目的があったのかも知れない。とはいえ優れた企画は、意図して生み出せるものではなく、空気に裂け目を開くように、一瞬のエネルギーが潜在していた企画意図を顕在化させるものだと思っている。
偶然は、時として不思議なパワーとアイデアを生むことがある。旅の過程で中国人とモンゴル人、それにアメリカ人だが、アメリカ先住民の血統を継ぐ人が北京の王府井(ワンフーチン)で食卓を囲む機会があった。またこれも偶然だったが、全員が達者に日本語を操る能力があったのだ。その偶然の中で生まれたのが「モンゴロイド6万年祭」という、とんでもプロジェクトだった。

世界中のモンゴロイドがモンゴルの大平原を目指す旅に

基本的な発想としては、できるだけ多くの人が参加できるプロジェクトで、しかも当時の国際的な文化と経済の潮流であった汎アジア的な祭の提案だった。それには、アジア人の中核であったモンゴロイドをテーマにすることが必然であるように感じたのだった。モンゴロイドをテーマにすると、いわゆるアジア一円だけではなく、カナダ・アメリカからアメリカ大陸全般に広がるアメリカ大陸の先住民たちがこのテーマにつながる。次いでジンギスハーンのヨーロッパ侵攻にともなうユーラシア大陸のハーンの後胤たちもテーマの対象となる。さらには、ニュージーランド、オーストラリア、ハワイなど南太平洋の島々、それに中国、モンゴル、ロシア、朝鮮半島、東南アジア、南アジア、インド北部や南部など、世界地図にモンゴロイドが広がる地域に色を入れると、世界のかなりの部分がモンゴロイドの世界ともいえるのだ。

文化の蒙古斑を求めて

さらに、そこからモンゴロイド共通の文化をモチーフにすることによって、これからの世界に対して、何か新しいメッセージが発信できないかと考えた。しかし実際のところ、私たちはモンゴロイドのことをほとんど知らなかった。モンゴロイドの考古学的な背景も知らないし、生物学的なコンセプトも分からない。そこでいろいろ伝手をたぐって、この辺りのことに詳しい大学の先生に会って、モンゴロイドというのはいつごろから登場したのかと聞いてみると、およそ6万年くらいではないかという。それで、「モンゴロイド6万年祭」というプロジェクトの名前になったのだった。
またインパクト狙いの企画屋の発想で、十分にプロジェクトのコンセプトも明確になっていない状況の中で、まずはプロジェクトのロゴマークを決めておこということにした。鮮やかな桃色の桃を人間のお尻になぞらえて、そこに私たちモンゴロイドに共通の特徴である蒙古斑を描くことにした。ここまでは、企画屋のノリで計画はどんどん進んでいった。

立ち上がる前に線香花火のように消えてなくなった!

このプロジェクトのアイデアは、当時急激にネットワークを広げつつあったインターネットの普及と歩調を合わせるように、国際的に賛同者、協力者を集結させることになった。日本では大阪、東京、国外では香港、カナダ、アメリカなどに仮の事務局が設けられた。ここまでは無人の荒野を行くような展開だったが、ここまでは、企画屋のノリで計画はどんどん進んでいったが、ある段階で、民族的あるいは政治的に面倒な課題が私たちの前に立ち塞がったのだった。
この時点までにも、プロジェクトの素案はできていて、モンゴロイドには蒙古斑は肉体的な共通点だが、世界に広がるモンゴロイドには共通の文化的な要素があった。私たちはその中でもテント型住居と太鼓を中核とする音楽的な要素をモチーフに、モンゴロイドのマザーランドと目されるモンゴルの大草原で巨大なフェスティバルを開催しようとしていた。また祭典までは、モンゴロイドが世界中に広がったルートを逆行して、世界各地からモンゴルの大草原を目指すキャラバン隊がスタートし、やがてモンゴルの大草原に集結するというストーリーが素案になっていた。

それがまず対立の火種になった。中華系のグループはモンゴルの大草原は認めるが、中国の内蒙古で開催することを要望してきた。もちろんそれはモンゴル側が認めない。プロジェクトは私たちの私的なつながりをベースに、仲間同士が企画と運営をサポートしてきたもので、その対立も国家や行政が関与したものではなくて、あくまでプランニングスタッフ内部のことだった。そのころからアジアの様々な国と地域にナショナリズムの感情が沸き上がっていった。実はそのことだけでもなかったのだが、このプロジェクトを取り巻く環境はますます複雑な様相を持ち始め、ついには私たちの事務局も散解せざるを得なくなっていったのだった。
企画そのものは夢があったし、計画次第では大きな話題性も期待できたので、スポンサーになりそうな2、3の企業からの打診もあったが、交渉する前に線香花火のように、束の間チカチカと輝きながら消えてしまった。国際間でプロジェクトをするのは難しい。大きな壁があるというより、濃厚すぎる人間関係に疲れてしまったのだった。


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