「大阪万博」が育て上げたソフトパワー
日本経済の成長の節目となった大阪万博
2025年となる来年に、日本国際博覧会(大阪・関西万博)が行われるらしい。かつて、1970年には、大阪・関西万博の大先輩となる「日本万国博覧会(大阪万博)」という国際的な催事が開催されて、とにかく驚くほどの大成功を収めた。大阪万博は大阪府吹田市の千里丘陵で開催され、延べ来場者数は約6400万人、1日平均35万人の人が押し掛けたのだった。この成功に伴う経済効果は約5兆円と言われていて、大阪万博の開催に合わせて高速道路が開通、関西のインフラ整備も整い国家的なイベントとして数々のレジェンドを残したと言われている。この大阪万博をきっかけに、日本の経済は大きく成長することなったのだ。
「大阪万博」が生んだ博覧会のプロ技術集団
大阪万博は確かに成功したが、大阪万博にはもう一つほとんどの人が知らない大きな価値が生まれていた。現代はイベントの時代で、イベントを企画して運営している大手、中堅、小さな広告代理店がたくさんあって、それに従事している各種のプロがさらにたくさんいる。例えば、催事プランナーや催事運営者、建築家、照明プランナー、音響プランナー、照明演出家、ミュージシャン、アーティスト、舞台演出家など、数え上げればきりがないほど催事関連のスタッフがいる。ところが、1970年の大阪万博の準備過程では、まだ大規模のイベント開催という経験と知識が乏しく、大スケールのイベントに特化したプロの企画・運営スタッフはほとんどいなかった。
テレビや映画、舞台の大道具、小道具、照明、音響の技術者が寄り集まって、何とか知恵をひねってあの「大阪万博」が実現することになったのだ。何分にも、大阪万博の実質的な指導者だったのは、通産省のキャリアで、のちに作家として知られるようになった堺屋太一だった。堺屋太一が大阪万博の指導者だといっても、堺屋太一も万国博がどういうものであるかを知っていたわけではない。彼はパリ万国博について書かれたフランス語の書物を唯一のガイドブックとして、まさに手探りで一歩一歩万国博という漠然としたプランを具体的に作り上げていったと聞いている。大阪万博の計画が進んでいくにつれ、スタッフも次第に万国博というものが一体どういうものであるかを少しずつ理解していったのだった。
「大阪万博」は博覧会ビジネスを支える専門家のインキュベータ
結論を言うと、大阪万博をきっかけに、日本は、催事やパフォーミングアーツの催事企画・運営のプロフェッショナルを大量に生み出すことになったのだ。私が知っている範囲でも、舞台監督、照明、インスタレーション、音響アーティストなどの第一人者がやがて表舞台で活躍するようになっていった。彼らのキャリアのスタートを聞くと、「大阪万博」であると答える人が少なくない。日本の国家的催事や国際的催事のデザイン、演出の技量は抜きんでていて、その成果はその後展開されたビッグ・スポーツイベント、各種博覧会、国際的なイベントにおいてもいかんなく発揮されている。私は「大阪万博」の最若年スタッフの一人として参加していた。私は、催事ビジネスへの道へは進まなかったが、この一部始終を見つめていたかつての仲間として誇らしく思っている。
その後日本では、積極的に国際博覧会、スポーツイベントの誘致を行い、国際博覧会、ビッグ・スポーツイベントの誘致・運営において、まさに全盛時代を迎えることになったと言える。意外に認識されることは少ないが、実はこうした国際的催事の企画・運営能力やスキルは、不明確な資金処理の問題を残しながらも、日本の国力を示す大きな要素になったと言えるのではないかと思う。NHKの番組であった「プロジェクトX」では、戦後日本が生み出してきた技術開発の成果を紹介しているが、実はハードな技術ばかりではなく、催事の企画・運営というソフトパワーでの高度で先進的な技術が、日本という国家の存在感を高めていることはもっと認識されてもいいことではないかと思うのだ。