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変容と再生への短い旅

セミは地上に出て1週間か1カ月近くまで生きてやがて死ぬ

セミは地中で数年間を過ごし、やがて地上に出てセミとなり1週間から1カ月近く生きて、子孫を残して死んでゆく。セミの抜け殻は、短いドラマの置き忘れていった衣装と言える。そして、そのように潔い生き物が私たちの暑い夏の風物詩となっている。きっと、セミと同じような生態の昆虫は他にもいるだろうと思うが、私を含めて大方の人はセミ以外にそうした昆虫のことをあまり知らない。セミの生態は、本来であれば私たちの心に、哀愁あふれた感動を呼び覚ますはずだが、必ずしもそうはならない。なぜかと言えばセミは夏を生きる陽気な昆虫であり、また人によっては騒々しく感じる鳴き音を伴うからかも知れない。私たちが知るエネルギーにあふれたセミには、ポジティブなイメージにあふれているが、同時にそこには生物の世界の無常が潜んでいる。

セミの抜け殻に私はいつも心惹かれていた

私は子供のころから、セミの抜け殻が好きだった。昆虫と関わるものであることは分かっていたが、すでに生き物から物体に換わっていて、乾燥してプラスチックのような透明感があるので、私にとってどうしても手に入れたいモノの一つだった。夏になると田舎にある親戚の家に遊びに行っては、いつも使っているクッキーの缶に多くのセミの抜け殻を集めていた。今はそうした子供のころからすでに長い年月が経過しているが、それでも命あるものからプラスチックの置物のようなものに変化することが不思議で、今も出先の自然の中でセミの抜け殻を発見すると心が躍る。
成人してから思ったことだが、セミは土中での長い時間を経てサナギになり、やがて脱皮してセミになるのだが、セミとなって木々の間を飛び回るのも長い時間ではなく、1週間から1カ月近くのことだと聞く。そしてわずかな地上での生活を経て子孫を残して息絶える。子供のころには、死を間近に迎えたセミが、地上に落ちて微かにうごめいているのを見ると、何か病気になったのか、あるいは他の動物に襲われてケガをしたのだと思っていた。中学生も高学年になってから、ある程度セミの生態を知ることになって、中学生らしい無邪気な無常観を感じたことがあった。

セミも人間も生きている原理は同じ

しかし冷静に考えてみれば、私たちもその生態とあまり変わりはない。確かに、セミと違って人間は、セミの数日とは違って生と死の間に70年~80年の時間的な猶予がある。とはいえ子孫や種族のために頑張って働いて老化してやがて死ぬという原理そのものはまったく変わらないのだと思う。
人間と比べて他の動物、哺乳類や爬虫類、鳥類、魚類や昆虫などの生態は、時には大きく異なっている。ただ私たち動物のすべてが、長い時間をかけて同じ遺伝子から分岐したものだと考えれば、生きている動物の原理が同じなのは当然だと思う。ただこうした科学的な視点と、私たちが日々の生活の中で感じている動物に対する意識の間にはかなりの距離がある。その距離を少しずつでも縮めていくことが、人間の生活にとって不可欠な大切なことになろうとしている。地球の自然がなくなるということは、動物が生きていけなくなることと同義語で、その動物の中に私たちが含まれていることを理解しなければならない。

確かに、私たちの日々の生活と、アフリカのある国でゾウが絶滅するのと何の関係があるのかと反論する人も多いと思う。それはとても理解することが難しいことだが、セミも私たちも同じ原理で生きているのだと知ることがその理解への一歩だと思う。
それは、私たちが何も思わず川に捨てたプラスチックのゴミが、魚の体を通してやがて人間の体にも達することは、単なる学者の頭がひねり出した理屈のように見える。しかし、実際にそうした害が私たちに関連があると知るまでに、100年近い時間がかかったのだ。そうした現象が今私たちの生活の周辺に広がっている。もう少し人類の生存を先まで延ばせるのは、やはり私たちが学ぶことでしかないことを、知る必要があるような気がする。




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