螺旋階段
らせん階段は、ロマンあふれる近代建築の華
らせん階段という建築に置いての造形は、私の好みの一つだ。らせん階段は、建築物の上下左右の空間をひたすら拡張しようとする視覚的な働きがあって、建物の存在感も立体的に広がっていくような感じがする。国内では、北海道の「雪の美術館」、宮城の「仙台メディアテーク」、神奈川の「彫刻の森美術館」、東京の「東京文化会館」など、優れたらせん階段を見ることができる。古典的ならせん階段だけではなく、現代建築では短い直線を90度に折りながら、構造的にらせん的な形状を構造するらせん階段もある。人はなぜらせん階段に魅入られるのかということについては、私の私見にすぎないが、より上を目指してらせん階段を歩けば、少しずつ位置と視野は高くなり、また少しずつ緩やかな円を描きながら、左右どちらかの方向に向かっていく。つまり拓け行くパノラマのように、刻々と立体的に視野が変わっていくのが、ある種の自己変容の幻想が疑似体験できるという点に魅力があるのではないかと思う。
らせん階段が持つ絢爛豪華さと極小の階段という二面性
私は個人的にらせん階段は好きだし、実際に何度か有名ならせん階段を見る機会もあった。しかし、遠方まで出かけて自分の足でらせん階段を確かめるとか、らせん階段の造形美を自ら写真に収めるといったような愛好者とは言えない。しかし無関心というのとは少し違う。らせん階段には、絢爛豪華な造形の美もあるが、さらにもう一つ、狭い面積の場所に階段を作ることができるという機能的な価値がある。それは大型客船の中の階段などとして幅広く見ることができる。私はどちらかというと、らせん階段の機能性に関心を持つタイプのファンと言える。
消えゆく剥き出しのらせん階段への追憶
実は私が若いころ、最初に立ち上げた会社は、阪急電車の京都河原町駅から大阪寄りに3、4駅目の駅の近くにある小さな3階建てのビルの中にあった。1階は何を商いにしていた事務所か商店なのかまったく覚えてないが、私がいた事務所は3階にあった。ところがこのビルには玄関がなくて、中に入るには直接ビルに張り付いているらせん階段を上がるしかない。おそらく私の人生の中でも最も全体容積の少ない階段だともう。しかもこのビルのらせん階段は鉄の素材にさび止めの赤い塗料を塗っただけの剥き出しのモノで、雨が降れば頭を雨から遮るものは何もない。しかも誰かが階段を上がると大きな音がする。私は使い慣れているので、足音を忍ばせて部屋に向かうのだが、来客があると、その客はそのまま上へと上がってくる。男の人の靴音は革靴が多いので、それなりの音はするが、大した音は出なかった。しかし、女性でハイヒールか木製あるいは木質の靴底のサンダルなどでこの階段を上がると、残響が残るほど大きな音がする。
ある意味、使い勝手の悪さや、欠点も少なくはなかったが、一坪ほどの面積の上に一応3階までの幾室かのテナントの上下移動を支えるらせん階段の機能が収まっている。大きなビルの中に、小さならせん階段を配することによって、ビルはもっと造形的に変化のある空間になると思う。今時、小さなビルに張り付いた剥き出しのらせん階段のあるビルは不愛想に見えるかも知れないが、この機能の価値は忘れてほしくないと思うのだ。