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【短編小説】木漏れ日の日

 
 すぅすぅと寝息を立てる主人の顔を横目で見て、その間抜けな顔を確認してから窓の外に目をやる。
木枠で囲まれ、全開になった窓からは外の景色が良く見える。木の間から白く漏れ出すひかりが地面を照らし、落ちた影の間を万華鏡のように照らしている。
いつもよりも少しばかり太陽が明るく照る今日は、鼻に入る空気がとても優しい。
人の何倍も敏感な嗅覚を、心地よく癒す香りがする。
すう、と息を吸えば鼻に広がる木の匂いに、微かに混じる葉の匂い。
これは森の香りだ。
 町に出れば見える景色よりもずっとのどかで開放的で、静かなこの森は、もうこの世界にあまり残っていないのだろう。
毛並みに当たる風が、なんとなくそう伝えている。
 この心がゆっくりと森の1部と同化していくような、深く沈むような感覚を味わえる場所は、とても貴重で、尊い世界の神秘だ。

ただもし世界にまだこんな場所が、もしくはそれ以上に美しい場所があるのなら、知りたい、行ってみたいと思う。
深い紺や爽やかな水色だけでなく、もっと色んな色の空があるのだろうか。
包み込むように青い大きな湖や、空に流れるキルト、天から降る砂糖のように白い雪が、どこまでも続く土地…そんなものが本当にあるのかは分からないけれど、
いや、あるかどうか分からないからこそ、冒険に出るのではないだろうか。
 この世界の全てを知りたくて堪らなくて、飛び出さずにはいられない、そんな人間が、今だってどこかで沢山の星を見上げているんじゃあないだろうか。
大地を蹴って駆け出して、広大な土地をその足で踏み締めて。
沢山の空気を吸って、沢山の人々に出会って…

 そんな好奇心旺盛な人間がいたなら、いつかここにも来てくれるような気がするのだ。突然この木々達をかき分けて、この小さな小さなツリーハウスの扉を叩いてくれるような気が。
そして今自分の隣で眠っている心優しくて自由な少女に、楽しくて心踊るような冒険譚を聞かせてくれはしないだろうか。

きっと彼女は、大好物のカップラーメンを啜りながらも愉快そうに笑って、「面白いね」と言うだろうから。
 そしてその顔を、声を聞くことで、私はこれ以上ないほどの幸せを感じることができるだろうから。

こんなことを考えていると、今日のような暖かい日でもふと思い出してしまう。あの小雨の降る肌寒い日を―――

 その日はパラパラと雨が降り続いていて、湿った身体に跳ねる泥が酷く冷たく感じた。
 腹が空きすぎて、吐き気がする。耳元でパシャパシャと聞こえる水音がだんだん上に上がって来ているのを感じて、恐怖を煽る。
 いったいどれほどの時間こうしているのだろう。見知らぬ森に1人、転がってから―――
方向もわからずただ歩いて、もうどうしてこんなところを歩いているのかも分からなくなって。何時間歩いたのかもわからず、どれだけ脚を動かしても景色は変わらず、それなのにただこの黒い脚は汚れて、重く、鎖がついたように引きずることしかできなくなって。
 ああ、寒い。疲れた。喉が乾いた。
降り続く雨を飲んでいる筈なのに、呼吸をする度口の中は砂漠のように枯れきっている。
 ふと気づくと脚が折れ、身体は水を吸ってグチャグチャになった土に投げ出されていた。
息をすることすら覚束無い。ヒューヒューと喉から出るのはか細い空気だけ。

ああ、死は、こんなにも孤独で、惨めで、寂しいのだ。
誰にも気づかれず、たった1人誰も知らない所で冷たくなっていくのだ。
薄れゆく自分の体温を感じて、自分の命の軽さに気がついてしまう。
 手足の感覚が消え、意識が遠のいていく。
最期だ―――――

その時、天使は現れたのだった。それは無邪気に、軽い足取りで。

天使は言う。
「ワンちゃん、大丈夫?」

俺の顔を覗き込んでいる天使は、こちらにそっと手を伸ばした。

「アタシの家に行こう」
暖かい手が身体に触れ、視界がぼやけていく。

暗く、冷たかった森に光が差しこんだような気がした。

「大丈夫、あったかいご飯が食えるよ」

 意識を失う寸前ぼんやりと見えた天使は、黒髪の少女だった。

  
 「ん〜…」
後ろで寝ていたジャージの少女がモゾモゾと動いた。
「クロ〜、今何時」
そう聞いたあと自分で時計を見て、結構寝たなとぼやく。
寝ぼけまなこの目を擦って、彼女は気持ちよさそうにに欠伸をした。
「今日の夕飯作ってないんだから起こしてくれたっていいのに」
 どうせカップラーメンしか食べないだろう、と思いながらワン、と鳴いてみせる。
「あー、『どうせカップラーメンしか食べないだろ』とか思ってるだろ」
フフっ、と少し気だるげに、目を細めて小さく口を開けて笑うその顔は、寝起きの時の笑顔だ。

変わらない、いつもの笑顔。
君から貰ったこの命を、

私はこの最上級の天使の笑顔を守るために使うと決めたのだ。


最後まで読んでいただきありがとうございます。
この作品は創作「始まりのフロンティア」の番外編にあたるものです。
次の予定までの暇つぶしになれば幸いです。

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