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聖書主義へのレクイエム

 日本人で「聖書主義」という単語を知る人はあまりいないだろう。耳慣れない言葉だと思う。だから、多くの日本人にとって、今からぼくが述べる「聖書主義」に関するアレコレは、不要なぼやきとなる。

 では「聖書主義」とは何か。要するに、キリスト教神学なりキリスト教思想なりにおける専門用語である。平たくいえば「旧新約聖書66巻は、信仰と救いにおいて完全な神のことばである」という「聖書」に関する主義主張、イズムだ。

 以下に述べることは「キリスト教学」においては当然の前提であるし、同時に、聖書主義を標榜する人々への問いかけともなる。一体「聖書」とは何を意味するのか。

 言うまでもなく、ネストレやBHSは、人為的に復元された最新版「聖書」であって、いわゆる原典でもなければ、翻訳でもない。いわば、その中間にある存在といえる。

 では「聖書」とは何か。ぼくは聖書学者ではないので、あくまで門外漢として素人目線でいう。「新約聖書」の場合、それは個別具体的にナンバリングされた写本断片群の総称である。「旧約聖書」の場合は、マソラ、レニングラード/アレッポ写本、死海写本などの総称である。いうまでもなく、これらの写本間には異同が見られ、たとえばイザヤ書では、文法的に「主語」を確定できても、その主体が神なのか人なのか、神の敵なのか、分からないような箇所もある。すなわち、実際問題として、簡単に「読めた」とは言えないのだ。

 しかし「聖書主義」の教会の多くで、このような表現を聞く。「聖書にはこう書いてある!」……その度に、ぼくは思う。本当に?どの写本のどの文字列にそう書いてあるのか。どこの研究機関が保管しているのだろう?実際に、その写本現物を見たのだろうか。確認もせずに「聖書にはこう書いてある」というのは、嘘にはならないか。神の言葉を語るのに、嘘をつくのか…?

 実態をより適切に表現し、誠実に語るならば、「(いま自分が読んでいる手元の日本語訳)聖書にはこのように書いてある!(ので、それをこのように私は解釈しました)」というべきではないのか。知らんけど。

 「聖書に書いてあるから、このように為すべきだ」という当為への招きは、非常に強い語りだ。そのような語りを行う者は、少なくとも、上記のような厳密さが求められて然るべきではないのか。ぼくは、つねづねそう思っている。

 無論、こういう反論もある。「私は、聖書の翻訳委員会を信頼しているので」と。しかし、そうなると、その物言いは「聖書」への信仰ではなくて、「翻訳委員会への信仰」である。偶像礼拝ではないのか。いや、知らんけど。

 「聖書主義」と「聖書信仰」は厳密には違う概念である。後者が前者を産み出している。とはいえ、どちらであろうとも、ぼくの問いに「聖書主義」者や「聖書信仰」を奉じる牧師たちは誰も答えてくれないのだ。

 これは少し別の話にもなるが「聖書信仰」もまた、なかなか微妙な問題を孕んでいる。「聖書」の定義は措くとしても、「旧新約聖書66巻は原典において」というのだ。「原典」において?原典が現存せず写本しか存在しないにもかかわらず…?いや、原典に書かれていることはほぼ復元されているのだから問題ない?え、つまり、それは聖書を復元した聖書学者の技術への信仰であって、「聖書」そのものへの信仰ではないってことなのでは…?現存しない以上、「聖書」の原本そのものと翻訳の異同を検証することは不可能ではないんですかね...?知らんけど。

 「聖書信仰」「聖書主義」という語を思い出すたびに、ぼくはトラウマがフラッシュバックするように、こんなことをぼんやりと思い出す。なぜ正直に「聖書は、そもそも定義が不可能であり、意味不明です」と言わないのだろう。なぜ読めもせず解釈もできないのにもかかわらず、神の名を騙ってまで「聖書にはこのように書いてあります」というのだろう。

 少なくとも、長年、徹底的に、ギリシア語学と文献学を、またはヘブライ語学やユダヤ思想・文献学を学究してきた聖書学者がいうならば、まだ分かる。しかし、なぜ学部卒で、研究水準の神学も聖書学もろくに学んでいない人間が、もっと言えば、人文学の素養もない人物が「聖書にはこのように書いてあるので…」と声高に叫ぶのだろう。

 前提なので省いているが念のためにいう。ぼくは、いわゆる信徒の皆さんに対して、こんな問いかけはぶつけていない。信徒さんは教えられる側であって、これらについて責任は問えない。

 こんなことを考えていると、ふと、いわゆる「新約聖書」の語彙を思い出す。「反キリスト」という語である。この語は、通常、単数形として俗流に理解されているが、基本的に、そのような者が複数出現すると理解してよい。そう思うと「神のことばである聖書」への学的敬意もなく、その努力もせず、我流で「神を騙る」者たちは、ぼくの目から見れば「反キリスト」っぽいなと思う。まあ、そういう人々の信仰を否定するわけではないので、そこまでは言い切れない。とはいえ、少なくとも、ぼくには、そのような手続きを無視した「聖書信仰」も「聖書主義」も、ひどく不誠実だと思える。ぼくだけだろうか。

 以上のように思うので、ぼくは、もう聖書を読むのを諦めた。読めないものを読めるとは言わないし、嘘をついて神を騙りたいとも思わない。代わりに、神のもう一つの聖書「被造物」を読もうとしている。これは余談である。

 以上、あくまで素人の所感であるが、ぼくとしては「聖書主義」に関しては、レクイエムを贈る以外に為す術がないなと思った。とまあ、深夜テンションの戯言である。ひさしぶりに更新する記事が、こんなゴミのような内容なのは、われながらただ哀しい。ただ、その哀しさは、ぼくが未だ「聖書と聖伝」を信じているゆえにほかならない。それは申し添えておこう。寝る。

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