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アダムとアダパ、アブラハムの宗教

 「ノアの洪水」譚が好きなことは、こちらに書いた。言うまでもなく、ノアの洪水物語はメソポタミアの神話・伝承に基づいている。このあたりはシュメール語の解読史にも関わる話だ。当時、聖書の記述こそが「歴史」そのものだったから、それを覆す古代語とその内容は人々に衝撃を与えた。ある意味、「人類史」が聖書とキリスト教から解放されたドラマティックな瞬間だった。

アダムとアダパ

 さて「アダムとアダパ」の話である。どうやら「ノアの洪水」のように、「アダム」もまた淵源を遡れるらしい。「ノアの洪水」譚は、ヘブライ語で記された内容に酷似したものが、アッカド語で見つかっている。このあたり、こちらの論文に詳しい。最新の研究情報については専門家でないから知らないし、論じることができない。

 重要なことは、アッカド語の洪水譚がシュメール語の洪水譚に起源することだ。つまり、多くの人が知るように聖書の「ノア」はシュメール/アッカドの「ウトナピシュティム」を引き継いでいる。

 つまり、適切に神学的にいえば、まず神が、ヘブライ語という言語を選んだ。次に啓示を文書化する記者は、すでにアッカド語やシュメール語で記された内容を基礎とした。いわば、花開くユダヤ・キリスト教文化圏の根、胚胎としてメソポタミア/バビロニアがある。

 このあたり、ジャン・ボテロ『最古の宗教――古代メソポタミア』『バビロンとバイブル』などの邦訳に詳しい。また月本昭男『ギルガメシュ叙事詩』などもオススメである。

 では「アダム」は、シュメール神話ではどのようになっているのか。「アダム」に名前のよく似た人物として「アダパ」がいる。

 アダパは「神聖なる魚」として半身半魚の人物として描かれる。人間に工芸や文明をもたらすため、エリドゥの高位神エアによってアプス神殿より七賢人アプカルルが派遣された。その筆頭がアダパである。

 「エリドゥ」は洪水以前に建設された五つの都市国家の一つだ。一説では、ここに「バベルの塔」があったといわれる。「アプカルル」は神殿の聖職集団である。どうでも良いがアダパが魚を現している点、遥か後代にキリスト教徒が魚を象徴としたことに通じなくもない。アダパが漁師であったことも、イエスの最初の弟子が漁師であることを思い出させて興味深い。無論、ただの偶然である。しかし、おもしろい。

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巨人オグ

 数年前に贔屓の古本屋で手にいれた『神話伝説体系:ヘブライ・パレスチン神話と伝説』にも、似たような面白い記述を見ることができる。昭和3年の時点で、イスラム教側の神話も日本語に訳されていたのは、驚きというほかない。さすが神話学の碩学・松村武雄である。

 このオグは、いわゆるユダヤ教の聖典「タナッハ≒旧約聖書」にも出てくる。タナッハの記述では、身長1.8~4mであって、たしかに古代人としては破格の背の高さだといえる。一方、この伝承を継承したイスラム神話では、このオグは、身長18kmの巨人として現れる。

 松村の紹介やら検索やらから、この巨人オグが、アダムの娘アナクの息子だと知った。アナク自身の伝承にもブレがあるらしい。一般にアナクは、頭が二つあり、さらに両手の指は20本を数え、指ごとに長い鉤爪が2本ずつ生えていた。イスラムの伝承では「悪」それ自体、またはその象徴として考えられる存在で、神によって殺された最初の人物でもある。

 そんなピーキー・クリーピーな母を持った息子オグはさらに凄かった。高い山の頂さえ沈めたノアの洪水は、巨人オグにとっては踝を湿らせる程度。その巨大さは、サイが突進しても蚊に刺された程度にしか思わなかったとのこと。

 洪水の最中、ノアを沈めようと暴れるも失敗したオグは後に数百年を生きて、最後はモーセによって倒されることになる。伝承によれば、オグは山脈を引き抜いてイスラエルを陣営ごと圧殺しようとする。対して機転を利かせたモーセによって、自分の持っていた山脈を頭に落としてオグは死んだ。

 詳しくは本文に譲るが、大林太良『神話の話』によれば、神話の型として「世界巨人」がある。中国の「磐古」などがそうである。オグの規模は大陸を成すほどではないが、それでも身長18㎞は島ひとつ分には相当しそうな大きさだ。

 ところで昨晩ふと考えた。アダムの娘アナク、アナクの息子オグのムスコは果たしていかなる大きさか。約180cmの男性がいたとして、彼のそれを考えるに、おそらく10~15cmほどであろう。となると、これを単純にオグに当てはめると、オグのムスコは、実に最大1.5kmとなる。深夜に思いついて笑ってしまった。まったくクダラナイ話ではあるが、笑って許して頂きたい。

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ヨブとアユブ

 松村が『神話伝説体系』で訳して紹介しているものの中には、いわゆる「タナッハ」と類似の話が残っている。たとえば「苦難の義人ヨブ」である。興味深いのは、イスラム神話における「ヨブ」では、「アユブ」と呼ばれている。差異も大きい。ヨブの妻と違って、アユブの妻は悪態をつかず献身的な女性である。加えて、どうやらキリスト教の説話も混淆したらしい。

 アユブの妻のもとに悪魔イブリスが登場し「私を崇めさえすれば、病を癒しすべての財産を返し、元に戻して進ぜよう」と誘惑する。妻は夫アユブに相談すると、アユブは悪魔と取引しようとは...!と激怒し、体さえ元に戻れば、妻を百回はムチ打つッッ!と誓ってしまう。そして、たまらずアユブは神に憐れみを乞う。神は大天使ガブリエルを遣わし、清めの泉を溢れさせて、アユブの病を癒し、財産を元通りにして、死んだ息子娘も復活させた。

 そしてアユブは神への誓いを果たすため、思い悩んだ。神への誓いは絶対である。苦悩の末、妻をムチ打って死なせる覚悟を決めたアユブに大天使ガブリエルは知恵を授ける。

 アユブは百枚の葉をつけた棕櫚の枝を探し出し、その枝でもって妻の身体をそっと一回叩いた。すると、百枚の葉がついているので、百回叩いたことになり、妻もまた死なずに済んだ。

 タナッハに収められている「ヨブ記」とは随分と話が違う。ある種のイスラムらしさが現れている。たとえば「女性観」である。ユダヤ・キリスト教の妻は夫に悪態をつくが、義人アユブの妻は献身的かつ信心深い人である。アユブも妻を救う方法を一心に探している。とまあ、この他にも色々あるが、それらは読者の楽しみとして本文に任せて、ここでは措きたい。

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アブラハムの宗教

 以上のように、ユダヤ・キリスト教、イスラム教と並べて、民間伝承・神話のレベルで見渡してみると、やはり、これらを「アブラハムの宗教」と呼ぶのはふさわしい。少なくとも民話や口頭伝承の類は、千姿万態あれど、深い共通性をもっている。

 遠いシュメールの洪水以前の神話に淵源する「アダム」、アッカド語の物語を継承した「ノア」、ユダヤ・キリスト教を神話伝承として独自に取り入れたイスラム神話「巨人オグ」「アユブ」。では、これらの物語の共通性は何を示しているのだろうか。

 私見ながら、先に神学的に回答しておきたい。キリスト教とは「聖書と聖伝」の集合体である。上記に紹介した内容は、いわばキリスト教「聖書」のキリスト教外における「聖伝」化ともいえる。もちろん古代バビロニアまで「聖伝」と見なすのは、相当にアクロバティックである。したがって学術的厳密さはない。

 ただ言いたいことは、別にある。この外なる宗教を「聖伝」と見なした論理的帰結こそが「アブラハムの宗教」なのだ。つまり「アブラハムの宗教」という語彙を裏返して観察してみれば、ユダヤ・キリスト・イスラムの3宗教の土台としての古代メソポタミアとバビロニアがあり、さらにそれぞれの宗教を接着する神話伝承と民俗があるのだ。参考文献としては古典ながら、これを推しておきたい。J. E. Hanauer 著 "Folk-lore of the Holy Land: Moslem, Christian, and Jewish"(著作権切れでkindleなどで販売されてますがPDFも無料である)

 「アブラハムの宗教」という語彙のもつ豊潤さは、文字通り、洪水のように力強く、虹のように輝いている。文化なくして真理なし、真理が文化の衣をまとうのであれば、「アブラハムの宗教」という人類史上最大にして、神が人に与え給うた衣は、まるでペルシャ絨毯のように美しい、歴史の一枚絵となっているのだろう。

 遠く古代から続く人々の営みが、静かに歴史に積もっている。2月の寒さのせいか、珍しく大阪にも雪が降り始めた。この雪は積もるだろうか。

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