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キリスト教について

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「キリスト教理解」の理解について
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神の五指としてのキリスト教

 キリスト教とは何か。多くの日本人にとって、難しい問いだと思う。質問も答えも、立場によって少しずつ異なる問いかけだ。おそらく一般的には、キリスト教の印象は、まず「結婚式」、次に「エクソシスト」などのオカルト関係になるだろう。または荘厳な礼拝堂や絵画だ。つまりサブカルチャーの背景文化として思いつくものがキリスト教だ。それ以外は「欧州の宗教」だとか「イスラム教と仲悪いの?」とかにとなるだろう。  キリスト教とは何か。多面的な問いだから、答えも複眼的になる。  歴史的には「五大

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 「髭の殿下」として知られ、ときに「赤い宮様」とも揶揄された三笠宮崇仁親王殿下と聞けば、何を思い浮かべるだろうか。昨年、学会発表でわざわざ京都から出たついでに、東京三鷹の中近東文化センターへと足をはこんだ。同所は古代オリエント、アナトリア関連の考古学・歴史学者として有名だった三笠宮殿下により国内の研究拠点として、また収蔵品展示を目的として設立された。  円筒印章は複数ある。実寸模型でアッカド語(楔形文字)の洪水譚粘土板、ロゼッタストーン、ハムラビ法典、シュメール壁画、グデア

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遍路歴程:A Pilgrim's Progress

 20年前の旧交が戻ってきた。互いに大人になったから、なかなか時間が合わない。それゆえ旧友のため、ここにぼくの天路歴程を記す。たかが20年ぽっちの敬虔と研究の挫折、その痕跡。準備不足のまま厳冬期のエヴェレストに挑んで、そのまま氷漬けになった誰かのミイラが示す、デッドエンドへの道標。本記事タイトルが「遍路歴程」と名作との一文字違いな理由は、不朽の名作になぞらえるのは面映ゆいのと、日本人だから宗教的探求の名は、やっぱりお遍路かな…と思ったからだ。  以下、旧友以外にどんな需要が

即断即決のワナ

 不惑を過ぎて、随分と自分が「即物的になった」と感じている。たとえば自分が見聞きしてきた神学や信仰に関して、すでに粗方は分析とパターン化と納得が済んでいる。だから新しいと云われるもの、または騒がれるようなものに対して、何も感じなくなった。  よくいえば成熟であり悪くいえば感性の磨滅。人間はこうして老人になっていくのか…と、ひとり納得している。  最近もネットで流れてきた記事を見かけて即断即決してしまった。「宗教」「神」「救い」「神学」など、これら厳つい用語を使いながら、著

語ることがない

 最近気づいた。自分の信仰に関する実存は、ほぼ固まり、あとは惰性で動くんだろうなと。もちろん、大地震、コロナ、戦争と個人ではいかんともしがたい問題が迫っているようにも思われる。だから危機に応じて考え方は秒で変わるだろう。手のひら返しどころか、手のひらが光速回転するのが人間である。  キリスト教について語ることがない。先日たまたまtwitterスペースにて、いわゆるクリスチャンの皆さんの会話を聞いてみた。しかし、共感のしようがなかった。話題は、ある原理主義的なアカウントのふる

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「主体性」の跡で

 毎年、その瞬間が来るまで忘れている。そして思い出す。待降節だ。子どものころ、自分の背丈ほどあるクリスマスツリーを飾りつけるのが好きだった。今でもカラフルな電飾があると目がいってしまう。鉄骨で作られ抽象化された三角なだけのイルミネーションよりも、針葉樹模型に原色ライトのコードを巻き付けたツリーのほうがよい。  12月19日、自身の誕生日を迎えるせいもあり、この季節をソワソワと楽しみに過ごしてしまう少年期だった。誕生日のあとにはクリスマス、一週間後には正月――祝祭に次ぐ祝祭、

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やっぱり駄目だと思う

 何の話か。学会発表の話。  ぼくは博士課程在学期間の8割を兼業しながら行った。また満期退学後も、ほぼ一年間をフルタイム労働に費やしてしまい、研究が微塵も進まない期間があった。結果、研究に割ける時間はあまりなかった。指導教官が退官し、他の大学へ移る際、最後の指導にいたっては3月にお願いするハタ迷惑なことになり、さらに提出した内容は最低だった。後味の悪い幕切れとなった。  もっとも教授と学生の関係は「指導」という怜悧なところもある。だから猛省のち、新たな指導教官に反省を反映

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主体性と神の召し

 仰々しいタイトルで面食らう人もあるだろうが、たいした話ではない。ここ数年、ずっとキリスト教的な「主体性」について考えてきた。平たくいえば、それは「神の召命」から始まる話だった。  今だから言う。じつは、ぼくは神の実在・キリスト教信仰・聖書について疑ったことは一度もない。ぼくにとって、これらは外に出れば道路があるような確実さの問題なので、わざわざ疑わない。  たとえば、ささいなよくある日常を過ごした後で眠るとき、明日、玄関の前の道路が陥没することが心配で眠れない人は、あま

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宗教の発生と食に関するメモ

 研究の合間、夕食としてコンビニで大根オクラを買って暗い鴨川のほとりで混ぜながら、ふと思った。人類が肉食獣として進化し地球を席巻したのち、その大多数がアブラハムの宗教を奉じ、その宗教の核が「動物犠牲の祭儀による罪の赦し」にあるの、偶然だろうが示唆的だな、と。つまり宗教の発生と食の関係について知りたいのだ。  思いつきの元ネタは、最近の人類学の成果として「人類は進化の過程の大部分において肉食だった」という説があるという話。根拠は胃酸の濃度らしく、なるほど、なかなかに説得的だと

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死海写本のお話

 友人知人よりメディアが報じた「聖書の原型」について説明しろとの連絡がいくつか来たので、ここにパンピー代表としてパンピーのために説明を置く。※TOP画像は以下より引用:https://www.haaretz.com/archaeology/.premium-israel-finds-new-dead-sea-scroll-first-such-discovery-in-60-years-1.9621317  さて「死海写本」である。オカルトからSFまで人々に愛されて大人気の

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クリスチャンの「自信」

 ある宗教的信仰と「自信」を持つことに何か相関があるか。おそらく、ある。が、「自信」の持ちようは人間の気分や天気と同じで千姿万態だから、あまり論じても仕方ない。ただ今朝ふと考えた。  大人になるとは、自己の実存(現実存在)を外に仮託しないことだ。そう定義していいかもしれない。自分の身体や言語(=来歴or経験)や何かに、実存を賭け得る根拠を持つこと。たとえば、それが社会的にはダメで残念であっても、それを受容して生活すること。つまり、これがミニマムな「自信の形式」である。  

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いましばらくは荒野で מדברとדבר

 生活に追われていると、心が渇く。知的好奇心が乾燥してミイラのようになっていく。そんな中、友人と話して、再び少し水を得た。折しも火星探査機「忍耐:perseverance」が無事に着陸したとのニュース。  初録音という火星の風の音、画像処理されて美しく加工された火星の360度パノラマに息をのんだ。1969年7月20日、月面に人類が到達した日の喜びをぼくは知らない。きっと、こんな気分だったのだろう。そう思った。  友人との会話の中で、ふと荒れ野に関する話を思い出す。教会など

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アダムとアダパ、アブラハムの宗教

 「ノアの洪水」譚が好きなことは、こちらに書いた。言うまでもなく、ノアの洪水物語はメソポタミアの神話・伝承に基づいている。このあたりはシュメール語の解読史にも関わる話だ。当時、聖書の記述こそが「歴史」そのものだったから、それを覆す古代語とその内容は人々に衝撃を与えた。ある意味、「人類史」が聖書とキリスト教から解放されたドラマティックな瞬間だった。 アダムとアダパ さて「アダムとアダパ」の話である。どうやら「ノアの洪水」のように、「アダム」もまた淵源を遡れるらしい。「ノアの洪

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天譴論とキリスト

 10年ほど前、「ぼっち大学生チャット」に入り浸っていた。2ちゃんねる経由のフラッシュ・サイトである。初めての海外で大学院、慣れないことばかりで、日本語チャットで会話することに大きな慰めを得ていた。  2011年3月11日。のちにチャット仲間から伝え聞くに、どうやら震災でサーバーダウンしたことで、同サイトは消滅したらしい。管理者が津波にさらわれたのかも知れない。以来、電脳の依代だったサイトが回復することはなかった。  先月11月23日、月曜の朝。ない時間を絞り出して、柳田

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