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「主体性」の跡で

 毎年、その瞬間が来るまで忘れている。そして思い出す。待降節だ。子どものころ、自分の背丈ほどあるクリスマスツリーを飾りつけるのが好きだった。今でもカラフルな電飾があると目がいってしまう。鉄骨で作られ抽象化された三角なだけのイルミネーションよりも、針葉樹模型に原色ライトのコードを巻き付けたツリーのほうがよい。

 12月19日、自身の誕生日を迎えるせいもあり、この季節をソワソワと楽しみに過ごしてしまう少年期だった。誕生日のあとにはクリスマス、一週間後には正月――祝祭に次ぐ祝祭、そして新年へ。

 思えば、そんな影響もあって、長じてキリスト教徒になった。キリスト教徒とは、キリストの到来を待ち望むものである。それは「待降節」に限らない。しかし待降節は、まさしくそのための期間である。

 東西の教会暦でいえば、だいたい11月末の日曜日を待降節第一主日としてロウソクを灯し始め、一月初旬まで世界中で「イエスの降誕」が祝われる。今年もそんな季節となった。

 SNSを開くと一度だけ出席した教会の牧師が「信仰や賛美が惰性になっていないか、主体性が必要だ」とこれみよがしに語っており、ふと考えた。そして気づく。

 主体性の後で何をするか――この10年ほど考えている。「主体性」は、たしかに人類普遍の構造である。しかし、それを一意に西洋近代自我と見なすことの暴力性が問題なのだ。いいかえれば、福音を受容する「個人」というファンタジーの問題、キリスト教の救いのプログラムの陥穽である。

 近代を再考しよう/再興したい、という話ではない。そもそも近代が継続しているのか、すでに過ぎ去っているのかさえ、ぼくには分からない。1960年代後半にはポスト・モダンと言われたが、考察の甘さは否めない。誠実な研究者ならば誰もが知っていることだ。

 牧師や宗教家は時代性のただ中で「自省せよ、主体化せよ」とやかましい。しかし、その果てにあるものは何か。主体性の後にやって来るもの、それは、間違いなく「死」である。

 たとえば、イエスは神の召しに応じた。主体性をもって神に従い、十字架で死んだ。パウロもペテロも主体性の結果、殉教した。最初期キリスト教徒にとって主体化することは、ほとんど死を甘んじて受け入れることを意味した。

 けれども「死」のあとには復活が待っている。「個人」という「罪」と幻想から解放されたイエスは、あらゆる壁を通り抜け、人々に平安を与え、雲に乗って天に上る。ぼくなりに要約すれば、主体化の後こそが問題であって、主体化それ自体はキリスト教とは、あまり関係ないのだ。

 ハッキリ言おう。主体化したところで待つのは死である。しかし、その後でキリスト教が来る。死を超えた先でイエスが復活し、キリストとして完全に現れたように、主体化の後「個人」という罪が死に、復活が来る。そこに個々人の成就がやって来る。

 キリストの復活の身体、その傷跡は主体化の跡だ。主体性に踊らされ苦しめられた先に、傷跡は栄光となる。待降節は、まさにそのような福音による変質、「個人」の赦しのために犠牲となった個人の到来を覚える季節だ。傍目にはグロテスクでさえある。しかし、それがどうしても必要だと思う。

 待降節。それはキリストの到来に対して主体化するものではない。それは主体化の後への期待、願い、祈り、約束を思い出すものである。だから少し気が早くもあるが今年も臆せず言おう。メリークリスマス!

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