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天譴論とキリスト

 10年ほど前、「ぼっち大学生チャット」に入り浸っていた。2ちゃんねる経由のフラッシュ・サイトである。初めての海外で大学院、慣れないことばかりで、日本語チャットで会話することに大きな慰めを得ていた。

 2011年3月11日。のちにチャット仲間から伝え聞くに、どうやら震災でサーバーダウンしたことで、同サイトは消滅したらしい。管理者が津波にさらわれたのかも知れない。以来、電脳の依代だったサイトが回復することはなかった。

 先月11月23日、月曜の朝。ない時間を絞り出して、柳田國男「南島研究の現状」(『青年と学問』収録、岩波文庫1976)を読んでいた。なぜか震災の話で始まっており、驚いた。言わずもがな、「関東大震災」である。同書によれば、柳田國男は地震発生当時、母国にいなかった。ある大厄災のとき、自らを育む土地とその民といなかったこと。そんな自己の不在は、ときに人によっては不可逆の楔、十字架となることがある。

 少なくとも、ぼくはそうだった。そして、柳田にとっても。

 柳田は「天譴論」で問題を片付けないよう、聴衆と読者に語りかける。柳田はある老人より、こんな言葉を聞く。

「これはまったく神の罰だ。あんまり近頃の人間が軽佻浮薄に流れていたからだ」

 柳田は怒りを隠さない。

「大部分は、むしろ平生から放縦な生活をなしえなかった人々ではないか。彼らが他の碌でもない市民に代って、この惨酷なる制裁を受けねばならぬ理由はどこにあるのか(中略)その論理の正しいか否かを討究するにも足らぬは明らか(中略)東京においてもより多くの尊敬を受けている老人たちの中に、やはり熱烈に右の天譴説を唱えた人があった」

 そして、このように続ける。

「たんに同時代の国民だというのみで、平素はなんらの連帯もなく、または相互の干渉も指導も戒飭も力及ばぬものが、代って罰せられる理由はない。たとえば銀座通りで不良青年がたわけを尽したゆえに、本所で貧民の子が焼け死ななければならぬという馬鹿げた道理はなく、それはまた制裁でも何でもない(中略)ソドム・ゴモラの旧式な説明を下すことは、因果説としての極度に不完全なもの」

 柳田は、この前提を宣言した上で「沖縄」問題を語り始める。その原因を社会経済上の失敗、または人間の痼疾だと指摘し、「没道理の天譴論者などは、まずもってこの点において深く反省するところがなければならなかった」と口調も辛く、本文を終える。

 柳田の「天譴論」理解に触れてハッとさせられて、キリスト教こそ天譴論そのものではないか、と思った。無垢なるキリストの磔刑死が、罪深い人類のためのものならば、それはまさしく「天譴論」にほかならない。柳田がキリスト教に触れながらも、とくに深入りできなかった理由は、もしかすると、彼の慧眼にあるのかもしれない。

 キリストの救いは天譴論ではないのか。沖縄の話を読めると思っていたら、意外な問いかけを柳田より受けた気がした。地球人類史上、最大規模で流布している天譴論の奇妙な噂。罪ある「私」のために、無実の誰かが死んだ。

 柳田は、関東大震災において、天譴論者を戒めている。ぼくも東日本大震災におけるクリスチャンの天譴論については、非神学的であり、蛮族の迷妄俗信であると断じてきた。しかしながら、柳田にとっては、キリスト教そのものが天譴論であったのではないか。

 なぜ日本でキリスト教が流行らないのか。キリスト教は日本人を救えるか。否、本当に日本はキリスト教を必要としているのか。少なくとも「近代日本」の知識人の多くが魅かれはしたが、信仰に生きるにまで至らなかった理由のひとつを、柳田國男は看破していたのではないか。

 名著古典の類は、紹介や解説を読むよりも自分で読んでみる。然り、まったくその通り。

 近代日本を紡いだ巨人の一言に深く唸らされた朝となった。

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