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神の五指としてのキリスト教

 キリスト教とは何か。多くの日本人にとって、難しい問いだと思う。質問も答えも、立場によって少しずつ異なる問いかけだ。おそらく一般的には、キリスト教の印象は、まず「結婚式」、次に「エクソシスト」などのオカルト関係になるだろう。または荘厳な礼拝堂や絵画だ。つまりサブカルチャーの背景文化として思いつくものがキリスト教だ。それ以外は「欧州の宗教」だとか「イスラム教と仲悪いの?」とかにとなるだろう。

 キリスト教とは何か。多面的な問いだから、答えも複眼的になる。

 歴史的には「五大教区」といえる。五大教区とは、古代地中海世界の五つの巨大都市(ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリア)に基礎づけられた宗教的伝統だ。古代ローマ帝国の版図を考えてもらえば分かりやすいだろう。

 教理的にはどうだろう。キリスト教は宗教なので、その根幹に教えと論理的前提を持っている。それを「教理」と呼ぶ。教理的には、キリスト教とは「聖書・三位一体の神・二性一人格のキリスト」の三つを明確に掲げるものが、正統なキリスト教会の範囲に含まれる。エホバの証人やモルモン教(末日聖徒キリスト教会)や統一教会が、キリスト教の異端とみなされる理由は、これらの三点と何かしら正統教会と考えが違うからだ。

 では、学問的にはどうだろう。京都大学名誉教授であり、キリスト教学の研究者・水垣渉によれば「キリスト教とは、多様な聖書的伝統である」。ならば、多様な聖書的伝統とは何か。それは、聖書を中心にした言語的・非言語的な人間の活動の全体だ。いまも生成され続ける巨大なネットワークなのだ。
 簡単にいえば、誰かがキリスト教や聖書について語るとき、行動するとき、反対するときに、たとえば、ぼくがここでnoteを書いているときに、あなたが、これを読む際に、いまこの瞬間に生成され続ける人類最大の宗教現象のつながり、それが「多様な聖書的伝統」なのだ。
 無数の人々の間で、無限に増殖する「キリスト教」や「聖書」「教会」に関する人間の思惟と言語と活動。反対も賛成も、肯定も否定も、この増殖する伝統は、問答無用で飲みこんでしまう。聖書は、おもにヘブライ語とギリシア語で書かれているが、言語は障壁とならない。翻訳は、言い換えと新たな解釈として、多様な聖書的伝統としてのキリスト教を増殖・拡大させてしまう。

 すなわち、キリスト教の本質は「翻訳宗教」にある。それは、ヘブライ語による古代イスラエルの宗教と、ギリシア語文化圏が衝突し対流する力を核として生まれたキリスト教の本質だ。ヘブライズムとヘレニズムの衝突と混沌の重力は、他言語、多文化へ「翻訳」という形で影響するのだ。21世紀現在、このネットワークは、ついに惑星を覆うにいたった。インターネットにアクセスする人口とキリスト教人口が、現時点ではほぼ同数であることは、象徴的でもある。

 では、これらのことを、もっと分かりやすくいえば、どうなるのか。ぼくならばこう言おう。「キリスト教とは何か、それは神の五指である」。想像してほしい。神の巨大な手が地球をつかんでいる。神の五指は、五大教区から伸びたキリスト教の歴史的な伝達過程だ。実際には、かなり複雑な経路を辿っているので、比喩的に考えてほしい。

 神の手のひらを地中海沿岸弧として考えてみよう。神の都エルサレムから東に向かえばユーラシア大陸を超えて太平洋へ、西に走っても大西洋を渡り、新大陸を横断して太平洋へつく。つまり、神の五指、五大教区の伝統が最後に到達する地域が「太平洋弧」なのだ。そして、日本列島は、その太平洋弧にぽつんと浮かんでいる。すなわち、この神の巨大な手の隙間、神の掌と向き合うような孤独が、キリスト教と日本の根本的関係なのだ。

 キリスト教とは何か。それは神の五指である。その神の指先をつなぐ太平洋弧という巨大な空間に、ぼくらの言語と島国がある。

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