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情緒と分析の伴走 running with both emotions & analysis

上記の記事では、自分は自分自身の情緒が自覚しにくいため、外面的な振る舞いから逆推(ぎゃくすい)する必要がある。なぜならば、自分自身を動かす動機づけ(例えば怒り)と話している言葉とを軸合わせしておかないと八つ当たりのようにトラブルを拡大しかねないからである。

さて、私は自分自身が何十年か生き延びてこられたことを幸運に思う。例えば誰かに斬り付けられたり、爆弾を仕掛けられたこともないからだ。私の健康をもっとも損なった人を数え上げるとすれば、私自身が筆頭に来るだろう。それでも、情緒がたかぶったり、あるいは相手をたかぶらせてしまうようなトラブルは多数あった。

そのようなトラブルを思い返すとき、原因を分析することが必要である。理想を言えば統計を取って、複数の人からそれぞれ異なる複数の状況で同じ反応をされた場合は、私自身に原因があるとまずはみるべきだろう。一方、今まで言われたことのない反応をもらったとき、初めての非難を受けたときは単に相手の機嫌や健康状態が悪かったのかもしれない。その場合は課題は相手側にあるのであって、私の側にはない。仮に私の課題でないとしても、その現場においては私が謝罪することが適切かもしれないし、相手から良くない反応を激しく受ければ、たとえ私に原因がなさそうだと頭でわかっていても情緒が動いてしまう(つまり、少なくともびっくりはしてしまうだろう)。

課題が私にある場合、私は原因を分析しようとするが、同時に狼狽してもいる。そういうことをトラブルがあった翌日に書いたり述べたりすることもある。そういうときは、まあ一晩経ってあれは自分の課題として受け止めるべきなのだろうか、どうなのかとも思ってもいるし、動揺や狼狽もある。そういうことを述べるのは私のクセでもあるし、課題解決をして自己改善をはかりたいという私のこだわりでもある。このこだわりはまったく自己中心的なものであって、別に誰もがそうしなければいけないとは思わないのだが、他の人から風変わりにみえるようだ。

私自身は動揺してもいるが、同時にトラブルの分析をする必要を感じている。だから、トラブルの直後は情緒と知的な分析とが一定の割合で、例えばトラブルの翌日なら情緒3割:分析7割といった具合で伴走または併走している。当然、言葉にして分析できるようになっている時点で情緒はトラブル中よりは萎んでいる。なぜならば、例えば単なる悪口やグチを言いたい気持ちもあるだろうが、自分自身でもそれは芸が無いことだし、他人からみて(=客観的に)気の利いた話にならないと判断するからである。その一方、同時に知的な分析を動機づけられる程度には情緒が忘れられずに残っていないと、どうでもいいこと、優先順位の低いこととしてそもそも分析しようと思わないだろう。

まずトラブルの原因が自分の側にあること、次にそれに対する適切な反応を見つけること、最後にそれを実践し、相手から予想可能な再反応を引き出すことができて初めて自分の課題を解決したと言える。例えば相手に対してあいさつしたり、然るべき場面で称賛したり、表情や口調を場の雰囲気に合わせて調整したり、あるいは他の人の状況を観察して確認したり、ギフトを適切なタイミングで贈呈したり、相手のニーズに合ったエピソードを適切な尺(時間的長さ)で提供することなどが挙げられる。当然、自分が以前のトラブルから推論した「適切な反応」を実践した結果、失敗することや逆効果になることも多い。褒めれば慇懃無礼と取られ、謝罪すれば煽りだと言い返されるといった具合である。そういった場合は状況や文脈の違いを考察したり、実際は相手の課題だったのではないか、この人に対してはテイラーメイドで対応した方がよいのではないかといった提案も検討してみてもいいかもしれない。

仮にトラブルの原因が自分にあったとしても、不可抗力である場合もある。運が悪かったのかもしれないし、今の自分の立ち居振る舞いをどのように変更すれば円滑な関係を継続できるか発見できないといった問題もあるだろう。なぜならば、私自身にも変更できない私の社会的な立ち位置や生まれつきの属性もあるからだ。そうであれば、そういうトラブルが起きそうな場所には近づかないか、あらかじめ「自分にはこういう特性があるので、ニガテな方はどうか除けてください」と立て看板しておくのも一案だろう。自分の特性やそこから生まれてしまう振る舞い方を修理するのではなく、直りはしないが、なるべく有害性を減らしながら付き合っていくというのも次善の策である。

こうした分析を言葉を連ねておこなっているときに、どういうわけか慰撫やカウンセリングの文脈でメッセージをくださる方々もいる(特定の一人を念頭においているわけではない。何人もいたし、いる)。もちろん、たいへんありがたいことではあるのだが、或る意味では既に情緒の気が抜けつつあるときに、慰撫の言葉を受けても正直そんなに励まされることは無い(こんなことを言うと、私は心無い冷たい人間だと思われるかもしれないが、他人を慰めることは一般的にも困難なタスクであると認識しているからこのような表現になる)。なぜならば、これは私の自己改善の問題であり、主観的にも私の生育歴に固有の自己中心的な分析であり、かつ客観的にも私は発達障害者という診断をもらった非定型発達であり、典型的な発達をした人々 neuro-typical ではないからである。

もしトラブルに対して知的な分析あるいは課題の切り分けを始めた私に対してメッセージをくださるとすれば、慰撫やカウンセリングではなくて、課題解決策の提案であったり、相手の状況に対して想像力のアンテナが弱い私に対して、状況に対する別の解釈を助ける提案であったり、そういったコンサルティング的なコメントの方が助かるし、従順にありがたく受け止めやすいであろう。ただ、もちろん私も誰でも思いつくような当たり前の助言ばかりもらっても閉口するし、自分の状況にピッタリ当てはまりながらもまだ知らなかったような情報や逸話を求めてしまうところがある。その点は申し訳ないがワガママだ。だから、決してそれを期待はしない。

とにかく言いたいことは情緒の変動と知的な分析とは両立し、同じ一人の人物に同時併存し得るということである。だから、書いてある額面通りの言葉をまったく無視して「行間」を読んで情緒の変動にだけ反応されても困るし、知的な分析に対して当たり前のいわゆる「正論」だけを述べられても困る場合もある。私自身が他人に接する場合にもこのことには注意しなければならない点だろう。

(2,707字、2024.01.24)

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