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「不向き」の概念化

例えば、自転車でもケン玉でもジャグリングでも折り紙でもサーフィンでもいいのだが、あなたが何度も反復練習をすることによって上達を目指しているとする。そこで、1,000回ないし数え切れないほど類似の失敗をするとか、そこまでやって何らかの上達(例えば滑らかにプレイできるとか、一定の回数連続してプレイできるとか、同じ品質のままスピードアップするとか)の兆候がみられない(=自覚できない)となれば、あなたは「これ以上いくらやってもだめだ」あるいは「これ以上いくらやっても変わらない」という判断をするかもしれない。

しかし、これは事実に反する判断である。なぜならば、せいぜい有限回しか練習していないからである。もっと練習を継続すれば、上達するか、上達の兆しがみえるか、反対に歪んだ形にハマってしまったり、身体を壊すかもしれない。とにかく良きにつけ悪しきにつけ、継続さえすれば必ず決定的な変化を受けるはずである。なぜならば、そこには質的な転換を引き起こす閾値(しきいち)となる量が存在するはずだからだ。

だが、概念としては「どんなに練習しても何兆回練習しても永遠に上達しないまま反復するだけ」という命題を樹立することは可能である。なぜならば、このような概念は時間や回数から自由だからだ。これはいわば「不向き」の概念化であり、常に変化してやまない世界の固定化のひとつである。平たく言えば、単に練習に飽きて、その言い訳を自分に納得させられるだけの練習量や疲労が蓄積したということでもある(これ自体も反復量が蓄積したことによる一種の変化だ)。

だが、そもそも我々が驚くような上達というのはこのような概念を凌駕(りょうが)した現実に到達するところにある。実際、大量の練習をこなす必要があること、長時間の練習をする必要があることをアタマではわかっているはずなのだ。ところが、最初の任意の時間を切り取って、「これだけやってダメなら、この10倍やったとしてもだめだ」とか「永遠にだめだ」とか決めつけてしまうのである。知的に事前に把握した概念、すなわちこのワザ trick をマスターするためには◯◯時間かかるかもしれないとか何年もかかるとかそういった概念あるいは期待があったとしても、実際にやってみてプレイヤーとして、反復する当事者として飽きてしまったり疲れてしまったりすると、それに相反する概念形成をおこなってしまう、ということである。

しかし、そのような概念形成を実際の経験が指し示したとしても、そして、その経験が「自分はこの技に不向きだ」という概念を提示してきたとしても、それを乗り越えて練習を重ねるところに上達が存在する(かもしれない)。そしてそこに感動もまた存在する(かもしれない)。経験が醸成してくる「自分はこの技には向いてない」という概念に対してどのように付き合うかに唯一の正解はないにしても、そのような概念形成を自分がおこなっているということに自覚的ではありたいものである。言い換えれば、最初に「大量の練習と時間が必要で、長くて暗い、先の見えない状態が続く」と事前に言われていたことを忘れないで練習を継続したいものである。

(1,302字、2024.09.02)

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