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機会仕掛けの神あるいは超越者という装置 gods from the machines

我々は自分自身の日常を単調な反復や既存のモノの機械的で平凡な組み合わせだと認識することによって安心を得ている。なぜならば、自分自身が把握または予測できる範囲の中に世の中の秩序が収まってくれると動揺せずに済むからである。

この世の中に何一つ新しいことは起こらない。なぜならば、この世は外から力を得る必要のない自律的な機械なのであって、それは何らかの法則に沿うようなかたちでしか動かないからだ、というのはひとつの思想、ひとつの見方である。この見方は頼りになるし、仮に我々の認識能力が無限に拡大しようとも、究極的にも正しい可能性もある。

しかし、実際には「新しい」ことが起きて人々は驚く。また仮に統計を取って長い目でみたり、俯瞰してみようとしても、不思議な外れ値というのが出現することがある。例えばソクラテスやニュートン、ナポレオンやレーニン、あるいはビル・ゲイツやジョブズやバフェットはそのような存在であったかもしれない。

とにもかくにも良くも悪くも傑出したそうした人物に人は驚く。なぜならば今まで見てきた人たちとは質的に異なることを成し遂げたように見えるからだ。そして初めてみた自然現象のワケを大人にたずねる子供のように「なぜこんなことが起こった? なぜあの人はこんなことを成し遂げられたのだ?」と目を見開くのである。なぜならば、その人物は従来把握された法則や反復から外れているからであり、世俗的な動機付けからは説明しにくい行動を取っていて、とにかく確率的?に信じられないようなことを成し遂げたからである。その偉業を自分も成し遂げたいと思う人にとっても、そんなことをされては困ると思う人にとっても、その原因についての知識が必要だろう。

だから、同時代の評論家や理論家は様々な回答をそれに与えようとする。しかし、やはりどうしても一般論や既存の概念で割り切れない部分が存在する。それらを片づけるためには何か特別な装置が必要である。

そこで、我々の世俗的な世界、経験的な宇宙を超えた原理を持ち出さざるを得ない。我々の世界は内部で完結しているのではなく、世界の外から選択された時・場所・人物に特別なことが生じると考えなくては収まりがつかない。そこで超越者や超越概念が持ち出される。例えば「血筋」や「天命」のような神秘的なコトバがそれに充てられたり、「運(まぐれ)」や「天才」といったコトバが割り当てられることもあるだろう。

言い換えれば、これらの言葉が出てきたときは内在的説明は放棄され、外在的説明を持ち出さざるを得なくなったのだとも言えるし、どんな理論家も包括的な説明をやろうとすればするほど〝神話〟や機会仕掛けの神のような「ゴミ箱」を最後は使わざるを得ない。さもなければ、散布図から余計な外れ値を観測しなかったことにして、あるいはデータの傾向をわかりやすくするために消すしかなくなってしまうだろう。しかし、その外れ値こそもっとも説明したかったことなのである。

(1,220字、2023.11.19)

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