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彼らの言う唐突さ

唐突(とうとつ)というのは、突然という意味であり、受け手にとってサプライズであり、驚きを引き起こすというさまを表しているという。他の人がどの程度そうなのかは知らないが、私はよく、「突然」「唐突に」行動を起こすと評価されることがある。一方で、私自身はむしろ意図的に、前触れや予告をしたところで他人から冷やかしを受ける可能性を増やすだけではないかと思って誰にも相談などせずに、誰が何と言おうとこれは自分で決めて自分でやるのだ!という意気込みで物事を始めるときがある。

突然ではない、予想できたということがあるとすれば、それは「普通」や「自然」の物事の進行があるということである。なぜならば、普通=突然ではないとは、自然現象や相手の発言や行動が一定の範囲内に収まるということであるからだ。例えば、原因や理由もなく大声で叫んだりケンカを売るような挑発行為をする人はいないというのは「自然」なことである。したがって、「普通」や「自然」な物事の進行があるという観念は人々の間で実際に共有されているのであって、それがまったく人それぞれ別個であるということはない。

またつまらない話を述べていると思われるかもしれない。なぜならば、普通のことが普通であると述べているだけだからだ。だが、普通のことが普通であるということが普通ではない人々もいる。例えば、或る種の個人主義者にとってはそれは普通ではない。あるいは、私自身も含まれる、個人ごとにひどく異なる特性を持つ障害者にとってはそれは普通ではないかもしれない。なぜならば、個人主義者というのは個人には個人の専権事項(せんけんじこう)があると信じているからであり、すなわち独り決めしてよいことの範囲を認めているからである。また、障害者も健常者が共有する「普通」の観念が読み取れなかったり、そもそも健常者が直面しないような文脈を持っているため、自分自身で「普通」を手探りしたり、「普通」を推測することを放棄して行動せざるを得ないからである。

これらの事情のために、「普通なんて存在しない!」と主張する個人主義者や障害者もいる。しかし、ご認識の通り、このような主張を額面通りに受け取ることもできない。「普通は幾つもある」と取るのもハッキリ言って苦しいと私は考える。なぜならば、同じ一人の人間が複数の「普通」を信じることは不可能ではないが困難だからである。普通の人にとって、普通は普通として普通に存在する。なぜならば、あらゆるものは反復するし、そこから自然の斉一性や人間関係の当たり前が生じてくる。同じ風土で同じ歴史、類似の働き方や制度を利用するうちにさまざまなものが似通ってくるからだ。普通が普通として成立することにはそれらの普通な原因や由来がある。なぜそうなのかはわからない。また、確かに普通は長期的には変化するのだが、その原因も我々には認識しづらいものである。

このような現前としてある「普通」を削除する力は私にはない。だから、私が誰かを驚かせてしまう、唐突な人間だと思われることはこれからもなくならないだろう。

(1,266字、2024.03.14)


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