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『訂正する力』の論証部分の評価

当記事では、東浩紀『訂正する力』を材料とし、そこから主たる論証と思われる構造を抜き取った上で、個別の点について(1)前提の事実確認と(2)推論としての妥当性の評価を深草がおこなっていきます。

凡例・記号法

特に深草が補った部分については〔〕(きっこうかっこ)で囲んで表記します。

はじめに

東浩紀『訂正する力』の「はじめに」では2つの論証が示され、それら合流するかたちで結論が提示されています。

論証0A

【前提0-1】〔ボトムアップの〕地道な努力が日本には必要だと思う。
【前提0-2】地道な努力には「哲学」が必要である。
【前提0-3、あるいは用語説明】「哲学」とは、前進するために現在と過去をつなぎ直す力であり、「訂正する力」である。
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【結論0-1】したがって、訂正する力が日本には必要である。

特に前提0-3について、背景を補足するために引用します。「ものごとをまえに進めるために」というところで歴史修正主義との差別化をはかっているのかもしれません。

そのような地道な努力にもやはり哲学が必要です。小さな変革を後押しするためには、いままでの蓄積を安易に否定するのではなく、むしろ過去を「再解釈」し、現在に生き返らせるような柔軟な思想が必要です。ぼくは本書でその思想について語っていきます。/ものごとをまえに進めるために、現在と過去をつなぎなおす力。それが本書が言う「訂正する力」です。

p4、東浩紀『訂正する力』朝日新書、2023年。強調は深草。

論証0B

【前提0-4】日本国や個人の成長はいずれ停止するから、脱成長や老化を肯定する語りを持つ必要がある。
【前提0-5】現代日本では「ぶれない」ことが評価されがちである。
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【結論0-2】したがって、日本の「訂正する力」は現在不十分である

【結論0-3】したがって、【前提0-1】及び【結論0-2】より、「訂正する力」が現在の日本には必要である。

論証の検討

一般に、論証の検討で必要なことは二種類あります。一つは前提が事実かどうかの確認であり、もうひとつは前提が事実であると仮定した場合に結論が導けるかどうか?です。

前提の確認

  • 【前提0‐1】は東氏の所感であり、前提に採用すべき事実かどうか不明である。

  • 【前提0-2】には根拠が示されていない。

  • 【前提0-3】は「哲学」に関する用語説明であり、もちろん哲学の定義については諸説あるが、十分受け入れ可能なものである。

  • 【前提0-4】成長停止や老化するのは事実命題であるが、そこからそれらを肯定する語りを持たなければならないとするのはべき論(当為命題)であるから、飛躍がある。というのも、現に人々は老化し、亡くなっているが、肯定する語りがなければそういう営みがおこなえないというわけではないからである。

  • 【前提0-5】現代日本で「ぶれない」ことが評価されることについて東氏は幾つか著名な実例やステレオタイプを挙げて説明している。したがって、これは一定の事実であると認めることができる。

推論の妥当性

仮に前提がすべて真であるとすれば、【論証0A】の結論は真となる。故に、【論証0A】の推論は妥当である。ただし、【論証0A】の結論だけでは現在必要かどうかが論証されていないので、【論証0B】が必要となる。【論証0B】の2つの前提は蓋然的ながらそれぞれ独立に結論を支えているが、推論としてはそれぞれ妥当である。


第1章 なぜ「訂正する力」は必要か〔時事篇〕

論証1

【前提1‐1】日本は欧州と比較して訂正する力を十分に活用できていない。なぜならば、現在の日本社会全体を規定する「訂正できない土壌」があるからだ。
【前提1‐2】一方、日本には本来訂正する力の豊かな伝統があり、かつ、近年は動画配信などで余剰の情報を提供することで訂正可能性を高め取り戻せる可能性もある。
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【結論1】したがって、日本は訂正する力をこれから強化できる可能性がある。

前提の確認

【前提1‐1】について著者は本章で幾つかの事実を挙げて例証している。だから、このような土壌が日本にあることは一定の事実として認めることができる。
【前提1‐2】についても著者は本章中で福澤諭吉などの具体例を挙げて「伝統」の実例を挙げ、さらに動画配信や情報の冗長性(周辺の文脈を拾える可能性)についても具体的に言及しており、一定の事実として認められる。

推論の妥当性

上記の前提から、日本は19世紀には持っていた訂正する力を現在は喪失していたとする結論が蓋然的(確率的)ではあるが推論できると言える。


第2章 「じつは……だった」のダイナミズム〔理論篇〕

論証2

【前提2-1】集団の当事者たちは様々な思惑を持ってしまっているため、自分たちのアイデンティティ(一貫性)を自分たちで決めることができない。故に集団のアイデンティディを決めることができるのは第三者(観客や審判)である(p.100)。
【前提2-2】人間は新しい情報を得たとき、現在の認識を改めるだけではなく、「じつは……だった」というかたちで過去の定義に遡行(そこう)し、〔無時間的な〕概念の〔時間的な〕歴史を頭のなかで書き換えることができる。
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【結論2】したがって、人間や集団のアイデンティティには、現在と過去とをつなぐ「遡行的訂正のダイナミズム」〔によって生成された物語〕が不可欠である。

前提の確認

  • 【前提2-1】は必ずしも事実ではない。なぜならば、集団の中に多様な思惑があるということから集団の一貫性を当事者に決定不能であるということは必ずしも導けないからである。また、第2章には左派も「物語」(一貫性)を紡ぐべきだという話もあるが、左派も当事者であるため、左派が一貫性を紡ぐことが可能なはずだという主張は矛盾してもいる。

  • 【前提2-2】のような能力を人間が持っていることは事実である。

推論の妥当性

【結論2】は言い換えれば人間や集団には歴史物語が必要であるということになるが、これは正確に言い直すなら、アイデンティティの危機に何度も直面しても切り抜け得るような持続的な人間や集団には必要にならざるを得ないというのが前提から導ける部分である。


第3章 親密な公共圏をつくる〔実存篇〕

論証3

【前提3‐1】人間は老化するため、或る時期から訂正する力がないと不自由になってしまう。
【前提3‐2】訂正する力を使うためには、自分を交換不可能な存在として扱い、かつ、自分のイメージを訂正してくれる人を周りに集める必要がある。
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【結論3】したがって、個人が訂正する力を役立てるためには、柔軟な人を周りに集める必要がある。

訂正する力を使うためには、自分を交換不能な存在として扱い、凝り固まった自分のイメージを「じつは……だった」の論理によって訂正してくれるような、柔軟な人を周りに集めなければなりません。それは具体的には、小さな組織や結社をつくり、「親密な公共圏」をつくることで達成されます。

p.181、前掲書。

前提の確認

【前提3‐1】について、長い時間の中で発言や行為の方針がぶれることは普遍的な現象であるため、訂正する力が必要になることは事実である。
【前提3‐2】について、自分のイメージ(ブランド)を訂正しながらも一貫性を持って解釈することは自分自身にはできない(∵【前提2-1】)。そのため、自己イメージの訂正は他者に頼る必要があるという点でこれは事実である。

推論の妥当性

上記の前提から言えることは、一定の年齢を経て訂正する力が必要になったときには、人生に訂正する力を役立てられる機会が訪れたということであり、そのときに柔軟な人々を周りに集めておくことが必要であるということである。


第4章 「喧噪のある国」を取り戻す〔応用篇〕

論証4

【前提4-1】政治学者の丸山眞男のように自然と作為を対立させるのではなく、「自然を作為する」という立場もあり得る。それには訂正する力が必要である。
【前提4-2】例えば戦争という政治の延長の欠如(自然)が平和主義である。しかし、この政治の欠如も政治(作為)によって生み出さなければならない。このことも「自然を作為する」ことの一例である。
【前提4-3】「社会全体がひとつの話題に支配されないこと、『友』と『敵』の分断に支配されないこと。いろいろなひとが政治的な立場と関係なく結びつき、いろいろなことを語り、極論が極論のまま共存し続け、いつも新たな参加者に対して開かれていること、日本には古来そのような喧噪を重んじる文化的な伝統がありました
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【結論4】したがって、訂正する力を取り戻して、平和を再定義することが日本復活の道である。

前提の確認

  • 【前提4-1】意図的な環境醸成、基盤整備という程度という意味で事実であると認定できる。

  • 【前提4-2】【前提4-1】の具体例であり、現に実行されていることだとも言える。

  • 【前提4-3】これは事実とは言えない。なぜならば、事実として肯定的な例証も否定的な例証もできるからである。むしろ東氏のパフォーマティブな願望を述べた文だと解釈する方が自然である。

推論の妥当性

【結論4】について、諸前提が真だとすれば導けると判定する。したがってこの推論は妥当である。


おわりに

論証5

【前提5-1】「みなが『考えないで成功する』ための方法ばかりを求める国はいつか破滅すると感じてしまった
【前提5-2】「ぼくはなぜか、いまの世界には考える人があまりにも少ない」
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【結論5-1】したがって、本書を執筆した。

ぼくはなぜか、いまの世界には考える人があまりにも少なく、それはまずいと感じてしまった。みなが「考えないで成功する」ための方法ばかりを求める国は、いつか破滅と感じてしまったそう危機感を抱いたこともまた、本書執筆のきっかけのひとつです。

p241、前掲書。

前提の確認

  • 【前提5-1】については東氏の主観であり、「いつか」という言葉があることからも、真偽を判定できない文である。

  • 【前提5-2】「あまりにも少ない」という場合は比較対象が必要であるが、比較の宛先の明記が無いため、真偽を判定できない。

推論の妥当性

【結論5-1】について、破滅の危機があるという前提に対して執筆という実践的な行動をおこなうのは十分な動機付けがあったと言える。


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