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謝るべきときは謝り、負けたときは「負けた」といえる、そういう大人になりたい

ふてくされてばかりの若い頃を過ぎ、分別もついてトシをとったが、それならそれで自分が成りたい、近づきたい、キープしたい「おとな」のイメージをしっかりと持つなり磨くなりしたいものだ。

私が成りたい大人像、そのひとつに「ぐぬぬ……」が言える大人というのがある。これは、相手に自分にとって不都合な事実や証拠、主張をされて何も言い返せなくなってしまったときに言うべきセリフだと認識している。インターネット上では出典の美少女の画像と共に使われることの多いミーム meme(=伝染コトバ)であるが、別に私は自分が美少女だと思っているとか、可愛子ぶりたいとかではない。ただ、相手に話を詰められて、だまりこんでしまうというのはイヤなのだ。

自分が言い返せなくなってしまったときに発するセリフとしての「ぐぬぬ」。

そうかといって、「参った、返せるコトバがない」とか「それに答える準備が私にはない」と完全に白旗を上げるのも或る意味情緒的にできないときがある。だから、私も含めてたいていの人は黙り込む。しかし、私が言い込める側のときは、黙り込むというのは無視なのかスルーなのか軽蔑なのか降参なのかわからない。だから、降参なら降参、反論する時間がほしいとか今すぐ返事ができないとかここでは返事できない事情があるとかそういうことは明言してほしいと思ってしまう(自分が優勢なら、実に自分に都合がいい考えだ。というのも、これは追撃の口実を与えろというのに等しいと思われるかもしれないからである)。なぜならば、それを明示しないのは、こちらが真剣に話を詰めているにもかかわらず、卑怯な態度だと私が思うからである。

私の親も、私を叱りつけておいて、ショックを受けた私が話を詰め始めると冗談だとごまかしたり、だまりこんで無視を始めるようなところがあった。それはフツーの人間なら誰しも仕方のないことかもしれない。なぜならば、真剣な話をするとたいていの人は電池切れするし、神妙な態度や詰将棋のような思考を継続できないものだからだ。ただ、或る種の中年のイヤな態度のステレオタイプとして、例えばハラスメントをしておいてから、それを真面目に追及されると「あれは冗談だった」とか「それぐらいのことでカリカリしないで」とか言う人がいて、私にはそれも親とダブってみえてかなりイヤである。ただ、それでもまだ返事があるだけいいほうだろう。私も含めて、言葉に詰まってしまうときが多いかもしれない。

言い込められて、完全に相手に白旗を降ることは意地やら何やらがあって自分自身でもわからないけれどもできない、少なくとも情緒的に困難である、しかし、同時に知的に有意味な返事がたった今すぐにできないことを潔く認めるセリフとして、私は黙り込むよりかは、「ぐぬぬ」が言える大人になりたいと思い、またそれを目指している。

(1,167字、2024.06.17)

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