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生きる意味

生きる意味とはなんなのか?漠然とした答えのないものに立ち向かうため、狩猟を始めた。

それまでの僕は「生きる意味などない」と一旦の結論を決めたのだが、それを裏付けるものがなかった。
だから裏付けるためには、より自然に、より原始に戻るにはどうしたら良いかを考えた末、狩猟を選んだ。

人に聞いたり、本を読んでもそれらしいものは存在するのだか、どうも人の言葉を借りていては、腑に落ちない。

狩猟を通じて分かってきたのは、その体験を言語化するのがすごく難しいということだった。
言語化の限界点を感じた。

そうすると言語化することがそもそも勘違いしているのではないかと疑問が出てきた。
言語化するということは、誰にでも伝えられるように一般化、平均化しなければならないことに気づいた。

狩猟をして、疲れた。楽しかった。恐かった。
これを言語化する。

おそらくほとんどの人が、どれくらい疲れたのか。どれくらい楽しかったのか。どれくらい恐かったのか。100人いれば100通りの読み取りをするだろう。

そもそも言葉とは、表現方法の一つである。いわばアートである。言葉にした時点でそのヒトの表現からひとり歩きし始めている。

美術館などにいくとよく分かる。同じ絵を見てもそこから感じとるものやことは作者の意図したものとはかけ離れていく。

なので、「生きる意味」とは考えるものでも言葉化するものでも語り合うものでもない。
それを、言語化した時点でそれは真意を失う。

ただ、自分の中にぼんやりとなくとなくそれっぽく存在していれば良いだけのものではなかろうか。

いや、存在していなくても良いのだろう。
「生きる意味」は「ある」でも「ない」でもいい。

なぜなら、それなら本当にわかるのは死んだときしかないからだ。
どのみちわからないのだから、「ある」と「ない」は正解がない。故に、両方の性質をもつ。

残念ながら、死人は語れない。
だから誰ひとりこの世にわかる人はいない。
体験もしたことない人の言葉にどんな説得力があるのだろうか。

人々にとって「わからない」は恐怖である。だから、なんとなくわかった気になって安心したいと願う。
ヒトが人であるがゆえに。である。

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