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わたしの本棚|#2「文章を書く」ことで自分を守ってきたのかもしれない

最近、嬉しいことがあった。
それは、本を読むのが大好きで、自分で小説を書いているという人に出会ったことだった。

お互いに好きな作家の話で盛り上がったり、これまでに読んでおもしろかった本の話を歩きながらたくさんした。
共通の趣味がラジオと読書で、ラジオの話もたくさんできた。

小説や物語に救われてきた私にとって、同じように本を読んでいる人と同じテンションで語り合えることの喜びは、この上なかった。

その人は自分が物語を書いていることを堂々と周りに言える人で、すごいなと思った。こうしてnoteを更新していることを4年経っても大学の友達とかに言えない私は、単純に公言できることがうらやましくも感じた。


生活のすべては文章のタネに

わたしは、ある作家さんのエピソードを聞いてから、日常的に起こった出来事を記録するようになった。
「こんなことがあった、腹が立った、心から幸せだった…」など、日常のすべての喜怒哀楽をなるべく残しておくようにしている。
それは、必ず小説やエッセイなど文章を書く際のタネになると信じているからだ。

私が記録しようと思えたきっかけの作家さんは、以下のお2人が書かれた本だった。
一人目は、「コンビニ人間」の著者、村田沙耶香さん。執筆をしながら実際にコンビニでアルバイトをしていた経験がある。

二人目は、「おいしいごはんが食べられますように」の著者、高瀬隼子さん。日常で感じた違和感をノートに書き留めておくことをされていると記事を読んで知ったとき、「だから、こんなにも共感できる一節が書けるのか!!」と感じたのを覚えている。

どうしようもない苛立ちや、社会の中の違和感、「これって自分だけ?」という感情に対して、色んな物語や文章が私を救ってきてくれた。

誰かに話しても、人はちょっとだけズレていたり、完全にぴったりと共感し合えることはないだろう。でも、小説の中で並べられる言葉は、なぜか自分とぴったり重なって、心にすっと入ってくる。

それは、どんどんと心の底に溜まっていき、あるとき、ふと思い出されて自分を癒してくれることがある。どんな本にも手に取ったときの気持ちや、当時の思い出があり、ページをめくるごとにありありと記憶が蘇るのだ。

書くことは自分を守ることかもしれない

たくさんの本を読んで、名作と出会ううちに、読むだけではなく、自分でもこんな文章を書いてみたいと徐々に思うようになっていった。
私は現実に起こったポジティブな出来事をnoteや投稿サイトに書きためているけれど、いつかドロドロした感情も、辛かったことも、フィクションで描いていきたいと思う。
それは、直接的に現実の出来事を投影させるんじゃなくて、たとえば自分が生活で感じた違和感をフィクションにすることで社会に提案することができるとか、そういった方向が私の理想だ。

書くことで、自分の過去や今を文章にのせることができ、誰かに読んでもらえる。それは、私が得てきた体験や感情を誰かと共有することになる。

共有することで、一人で悩んできたことも、一人じゃ太刀打ちできないような社会の問題も、少し変えられるかもしれない。
ひいては、「文章を書く」その行為自体が、自分を自分で救えることに繋がるんじゃないだろうか。

そんな淡い期待を抱きながら、多分、私はこの先も文章を書いていくのだと思う。


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