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子宮内膜症と診断された話。

可能性が広がっていると思うとき、実は閉じていっているときでもある。
ということは閉じていっていると思うとき、実は可能性は広がっているということでもあるのだ。

深い言葉だ。

私は先月、軽度の子宮内膜症と診断された。
受けようと思っていなかった婦人科検診を、ひょんなことから受けることになり、卵巣検査をしたところ、片方の卵巣に小さな血の塊が発見された。
すぐに消えるものかもしれないから、しばらく経ったらまた検査に来てくれといわれ、再度検査したら、もう片方の卵巣にもそれが見つかった。おそらくこの血の塊はチョコレートのう胞であり、子宮内膜症ということで間違いないだろう、との診断だった。

私は子宮内膜症の何たるかを知らなかった。
生理痛が重い人や月経量が多い人は婦人科に行ったほうがいい、それは普通ではなく病気かもしれないから、という話はあちこちで聞くが、私は自分では重いほうだと考えていなかった。(もちろん生理痛はあったし、月経量が多い月もあったが)
だから子宮内膜症といわれても何の実感もなかったし、そもそもどういった状態なのかが分からなかった。

血の塊が大きくなると卵巣がんにもつながることがあるので、これ以上大きくならないように低用量ピルを飲むことを勧める、といわれた。
「…これ以上大きくならないように、ということは、薬を飲んでも血の塊が今後小さくなることはないということですか?」
「そうです」
「つまり、ピルを飲んでも血の塊は消えないということですか?」
「…そうです」
「では今後大きくならないように、今後ずっと薬を飲まなければいけないということですか?」
「…(大きくうなづいて)そうです」

しばらく車の中で呆けた。
それから、子宮内膜症について知ろう、と思った。

図書館で本を見ていたら、婦人病関連のあたりに置いてあった。
そのほぼすべての本に、「不妊に悩まないで」「今後の健やかな妊娠のために」などという言葉が散らばっていた。
そうか、不妊の原因となる病気なのか。

そういえばクリニックで書かされた用紙の内容を思い出した。
「・今後妊娠を希望しますか?   はい ・ いいえ」

低用量ピルを飲むということは、セックスしてもほぼ妊娠しないということである。
本を読むと、妊娠を希望している場合、ピルを飲むという選択肢はとらず、漢方薬が処方されたり、最終的には手術で対応するということになるらしい。

私は今パートナーがいない。
すなわち妊娠を希望できる立場にない。
そして、子どもは可愛いと感じるが、自分が親になりたいとは思っていない。親になるのは怖い。

だから先ほどの用紙には「いいえ」と書いたのだが、それが今後とりうる処置の選択肢にこんなにも影響を与えるものだと、まったく気が付いていなかった。

なぜだろうか。
私は親になるのが怖いのに、妊娠する可能性がなくなっていくことを同時に怖いと思った。
年齢とともに妊娠は難しくなる。
私はそろそろ本当に難しい年齢に差し掛かっている。
それでも無邪気に子どもを持てる可能性もゼロではないと心のどこかで感じていたことに、ようやく気が付いて、驚いたし、失望した。

それは、両親に孫を抱かせてあげるという親孝行をしなければ、という義務感からかもしれない。
その義務感を私はいつも日常の端々で感じる。
ラジオの投稿者が孫について語るとき。
テレビで同年代の夫婦がすでに3人もの子どもを持つ風景が映し出されるとき。
スーパーや雑貨屋で、夫婦が子どもを追いかけまわしているのを見るとき。

子宮内膜症と診断されたためにピルを飲むことになったことを両親に告げた時、母はこう言った。
「でも、いつかは妊娠できるんでしょ?」
この問いになんと答えたか、私は覚えていない。

それでも私に現在パートナーはいないし、だから自由だ。
自分のお金を自分自身に使えるし、自分の都合は自分自身のためだけのものだ。
その自由を今後どのように使い、心の底の義務感とどう闘っていくかが、今後の私の課題となっていくだろう。

今後私にパートナーができるとは正直思っていない。
だから孤独な人生になるかもしれない。
でも、パートナーがいなくても、心の通じる友人が数人いるだけで人生はまったく変わっていくだろう。
パートナーがいなければ、友人とルームシェアをして暮らすことも可能だ。
自由に日本各地へ出かけ、まだ知らぬ日本の風景を経験することも可能だ。

私の可能性は閉じていっているが、同時に広がっているのだ。
その言葉を改めてかみしめるひと時だった。

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