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他人の幸せは目に見えない

この世の中どこに幸せの基準を持ってくるかなんて人によって違う。昔こそは真っ当に、まじめにを標語に生活して結婚して家庭を持ち、子供が生まれ家族を守り、子供を育てて大人にしていき、起こり得る行事を乗り越えていく、といういまでも一般論として残る半ば儀式のようなものが幸せの代表格だったのかもしれない。ただ、現代社会においてはどうだろうと思うのが本音で。幸せを幸せという形にかかることすら今となってはナンセンスではないかと感じる。

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少しずつ、確実にオープンになってきている今、セクシャルマイノリティーに当てはまる人間の中には結婚という選択がしたくてもできない人がいる。特に同性婚に関しては日本の中心部の東京でさえ一部の地域しか同性の恋人を結婚と同等の契約を結ぶことができないというのに、地方となるとさらにその門は狭い。考えはじめると既に気が遠くなるような問題だ。自分にとっても他人事ではないのに。とは言っても私は結婚に対して前向きではないので、そこまで切迫しているわけではないが、愛は誰に対しても平等であり正義であるべきだとも思っているので、結婚は全ての人間に与えられるべき権利であっていいのではないかな、とおもっている。だって誰の生活も脅かすわけではない。明日世界も終わらない。変わるとすれば、自分の知らない、知っているかもしれない誰かが一つの幸せを手に入れることが出来る可能性があるということだけだ。

散々こんなことを書いておいて自分の結婚観へと入るけれど、私は先ほど述べたように結婚に対してあまり前向きではない。理由はまた何かの機会が有れば書こうと思うので割愛するが、あまり結婚についていいイメージを思い描けない。けれども周りは結婚することに対して異常な執着を見せる。住んでいるところがわりかし田舎なのもあり土地柄とも思うし、幸せが目に見える形で現れるからだと思う。それがいままでの幸せの最たる部分に近いから。けれども私は結婚せずともいまとてもしあわせだ。職があり、自分の為に時間とお金を使い、好きにいきている。なにが幸せかと言われたら説明するのは難しいが、幸せはそんなものではないかと思う。

そもそも幸せとはどういう意味だろうと、辞書で引いてみると曖昧だな感じた。運がいいこと、幸福、うまい具合に行くこと。これだけみて、やはり感じたのは人それぞれの感情に任されて幸せは成り立つということ。他人が幸せの定義を決めれないからこのように書かれているのだ。

つまり話がもう飛びに飛んでいるが、なにが言いたいかというと幸せは自分で感じたものを幸せと謳えばいいのではないかということ。もちろんそれが愛する人とお付き合いをして、結婚してより幸せになるのであればそれはとてもめでたいことで、わたしは祝福する。あなたの幸せを見つけたあなたをおめでとうと本心で思うし、きっと泣く。ただわたしの幸せは現状結婚ではないだけ。なのでわたしが幸せと感じていて、そう話しているのであればそれはそれで幸せ、人それぞれなんだということを念頭において欲しい。申し訳ないことに好きな人ができたら変わるよ、と言われてもピンと来ないし残念ながらいま恋人もいないので、愛想笑いしかできない。

ここまで書いていてとても結婚について結局否定的に見えるかもしれないけれど、決してそんなことはない。それだけはわかって欲しい。どうしても、自分の幸せを主張してしまうと交際、結婚ではない自分の意見はマイナスの言葉になってしまう。

他人の幸せは目に見えない。だから、他人の幸せを聞いたときは素直に頷きたいとおもう、そんな話がしたかった夜でした。

書くのが疲れてきたのでそろそろおわり。明日も素敵な日になるといい。あなたも、わたしも。



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ワタクシ 20代 病院勤務 虐待されたり小学生で親の介護したり殺されそうになったり家族が自殺したり性差別を受けたりバイセクシャルってわかって泣いたりして精神が地獄のネガティブを極めてましたがある時幸せになりたいからポジティブになんでも無理やり考えまくっていたら鬼のポジティブになってメンタル強めになりました。おこがましいけど、同じようなひとが少しでも自分を緩めることが出来るような言葉をかけたらなと思います。基本的に笑っています。

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