映画: プリデスティネーション

Amazon primeで観ました。

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凄い映画でした。すごくなかったですか?

え、まだ観ていない?早く観ましょう。

タイトルの直訳は「運命予定説」だそうで、内容も踏まえた意訳は「運命からは逃れられない」といった感じだと思われます。

いやぁ、SF映画ですよ。めちゃめちゃ好きなジャンルのひとつなんですよね。何故かという話は長くなりそうだから割愛しますが、ざっくりいうと「一発逆転」が多分好きなんですよね。いわゆるどんでん返し?ですかね。これはミステリみたいな精緻なものでやっても映えるんですけれども、SFにおけるどんでん返しってすごい「溶け込んでいる」と思うんですよね。伏線がより生きてくるというか、どんでん返しを見せられたときに「ああ、確かにこんな世界観ならこんなことも起こってしまうだろうな」っていうようにすんなり受け入れやすいというか、まあ個人の感想ですけども。

内容に触れていくことにします。

そもそも論として、タイムリープをするときに何を願うかということなのであるが、その多くは「過去、もしくは未来を変えたい」というものであろうことは想像に難くない。当然である。何の目的をも持たずに過去・未来へと赴くことができるのは、リアリティを排した「ドラえもん世界」のような場合だけである。何と気軽な時間旅行であることか。さておき、過去ないし未来を変えるという、ある種のリスクさえ孕んだ行為を実行する原動力は一体どこから湧いてくるのだろうか、という部分が当映画の前半における自分なりのポイントだと感じている。答えは、「現在に対する不満」であるのだと思われる。何故か。

例えば現状に不満を抱いているそこの僕 / 私へ問う、こういった劣等感は「あの時ああしていれば」という後悔が下地にあることは認めざるを得ないのではないだろうか。これは生きている人間ならば当然の感覚であり、過去と現在と未来とが連綿と続いている証でもある。そりゃ戻れるなら誰だってあのときの失敗をやり直したい。ただ、そういった思いとはある種の矛盾を内包しているようではあるが、それと同時に人間とは「あのときの選択は間違っていなかった」という考えを抱く生き物でもあると考える。これもまた至極当然で、変えようのない過去の蓄積で形作られた現在を肯定するということは、引いては自分自身への肯定にも繋がるからだ。ここがこの映画後半における重要なポイントである。

この一連の事実を「未来」から振り返ったとき、人は「運命」を「宿命」だと錯覚する。「現在」に対する自己肯定を運命に対する不可避性と取り違えてしまうからである。誰だって、己に降りかかったいくつもの選択肢を超えた先にあるものが間違っていたとは思いたくないもんな。

ここまで書いたことは、取り様によっては悲劇的であるがしかし、楽観した結論としては「一個人には選択の是非を判断する術はない」という無責任的な見方をすることもできる。だからこそ、いやしかしながら時間を渡り歩けるようになっても、現在の自分はきっと過去の自分に同じ選択をするように迫るのではないだろうか、私も、君も、あなたさえも。

視界が狭いと感じるだろうか?

でもそれは、もしかしたら一個人が有するべき視界を正しく有しているだけかもしれない。そうやって考えたとしたなら、運命なんてものは変えようがなくて、過去の自分に「予定された運命」を強いているのかもしれない。レールを敷いているのか、レールから外れないことを強いているのか...

酔いが醒めてきたのでこの辺で、ばいばい。

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