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消えゆく記憶とポラロイド

仕事が始まり1時間ほど経った頃に胸ポケットでスマホが震えた。手に取ったスマホの震える画面には電話番号だけが表示されている。登録のない電話番号だが地元の市外局番なので、おそらく変な電話ではない。最近機種変更したので、連絡先データの引継ぎが上手くいっていないのか。通話ボタンを押そうかどうか迷っていると、電話は切れた。

すぐに同じ番号から電話がかかってきたので席を立ち、通話ボタンを押して廊下に出る。

「もしもし、野下さまの携帯電話でいらっしゃいますか、こちら落陽園でケアマネをしております山内と申します」

「はい」

「実はお母さまの体調のことでご連絡差し上げました。今お時間はよろしいですか」

「大丈夫です」

「最近ご体調はよろしくて、ご飯もよく召し上がっておられて、以前のように微熱が続くこともないのですが、今朝方、左耳から出血がありまして、昨日も鼻血を少し出しておられて、ちょっと気になりまして」

「はい」

「それで、こちらの担当の先生と相談しましたところ、一度病院で受診された方が良いのではとのことでして」

「はい」

「今日は金曜日で、大きな病院で診てもらうには午前中しかなくて、できれば土日は挟まずに早く診てもらった方が良いのではと思いまして」

「あぁ、じゃぁ、今からそちらに向かいますよ。そちらで付き添いは難しいということですよね」

「病院に向かうのであれば、今から車の調整をします。おそらく付き添いはできると思うのですが…。一応、野下さまが今から病院に向かうということで、調整させてもらって良ろしいですか」

「お願いします」

「では、病院に向かう方向で今から調整します。折り返し電話しますので、電話を切ってお待ちいただけますか」

「わかりました」

自席に戻るとすぐに電話があり、病院に向かうことが確定した。ケアマネの山内さんも施設から付き添ってくれて、病院の耳鼻科で待ち合わすことになった。

今日は上司が休みで、前に座る花井も昼から休暇の予定だ。今からぼくが休むとなると、係内で在席するのは右隣に座る中田さん1人になってしまう。中田さんは、この8月に異動してきたばかりで、業務のことはよくわからない。どうするか迷ったが、急を要する業務はないので、事情を説明して了解してもらい、すぐに職場を出ることにした。

乗り継ぎの悪い電車にゆられて、ようやくたどり着いた最寄駅からタクシーに乗り、病院に着いたのは12時を少し回った頃だった。病院内の人はまばらで、午前診の受付は終わっていた。総合受付前の案内図をみて耳鼻科の位置を確かめる。2階フロアの5番だ。総合受付を通り過ぎたところにあるエスカレーターに乗って早歩きで上り、案内表示の5番を探して歩く。

5番の耳鼻科フロアを遠くに見つけて歩いて向かうと車椅子の後姿が見えて、その隣にブルーのポロシャツを着た小柄な女性が立っていた。ケアマネの山内さんだろうと思って近づくと、山内さんも、こちらをみて、なんとなくわかったのか、あぁ、となった。

「次に呼ばれるのが、野下さんの番号だったので、ちょうど良かったです。お仕事だったのに、すみませんでした」

「いえ、お世話になります」

車椅子の隣にしゃがんだ山内さんは母の耳元に顔を寄せて話しかける。

「野下さん、息子さん来てくれたよ、よかったね」

車椅子に座った母は特に反応を示さない。車椅子の正面にまわってしゃがんだぼくは、自分の口元のマスクをずらして、母と目を合わせる。

「母さん、久しぶりだね。元気にしてた?、って言うのもなんだけど、調子はどう?」

母は、珍しいものをみるような目でじっとぼくの目をみる。

山内さんが言葉を引き取り話をする。
「お母さま、最近とても調子が良くて、元気でいらっしゃったんですよ。微熱もなくて、食欲もあるし、入浴の時もけっこう抵抗されるし、あっ、変な意味じゃなくて、とても元気でいらっしゃるんです」

「そうですか、それは良かったです」

「今朝、応対させていただたときに、耳から少し出血があって、手前の方の傷ではなくて、ちょっと奥の方から出てきたようで、先生に相談して受診した方が良いのではとなって、野下さんにお電話をしたということなんです。本当にすみません」

「いえ、こんな状況で、なかなか会うことができなかったので、顔をみれてよかったです」

「母さん、ぼくのこと、わかるかな、ゆうじです」

細くなった左手をさすると、その左手が動いて、ぼくの右手首を強く掴む。強くといっても力があるわけでもなく、弱々しいと言えば弱々しい。ただ、意志のようなものはある掴みかただった。じっと目をみていると、母は泣き顔になっていく。涙が流れるような泣き顔ではなくて、情けなくて、泣けてくるような顔だ。声を出すことなく、哀しんでいる。

「母さん、しんどいよね。よくがんばってるよ。ありがとうね」

哀しい顔がさらに哀しくなっていく。母が倒れて介護が必要な状態になってから、笑った顔をみたことがない。きっちりとした人で気が強くて恐い時もあったけど、明るくて華やかでよく笑う人だった。

母と一緒に大笑いしたことって、あったかな。お腹を抱えて涙を流すくらい笑ったことって、過去にあったのかな。きっとあったんだろうな。笑って、笑って、しょうがないくらいに笑ったこと、あったんだろうな。

哀しい顔をした母の顔をみていたら、ある光景を思い出した。

写真。ポラロイド写真だ。ぼくが小学生だった頃に撮ってもらったポラロイド写真。まだそれほど普及してなかったのか、流行っていた時期だったのか。シャッターを押すと「ジーッ」と音がして写真が出てくる。徐々に浮かんでくる色が不自然に鮮やかだった。

思い出したポラロイド写真には、確かぼくと母が写っていた。父はまだ仕事から帰って来てなくて、そうなると姉が撮ってくれたのか。

写真のぼくは小学校3年生くらい。百貨店の紙袋を頭からすっぽりと被っている。被った紙袋の目の部分は片方だけハサミでくりぬいてある。口元もハサミでくりぬいてある。派手な感じの黄色のトレーナーを着て、居間の炬燵に座ってふざけた顔をしている。光の加減で真っ白な顔をした母はカメラの方を向いて大笑いした様子で写っている。

母さんとぼくと姉さんは、ゲラゲラと大笑いしていたんだ。そこに帰ってきた父さんも笑い出して、みんなで涙を流すくらい、大笑いしたんだよ。

そうだったよね、母さん。


【2020/11/21 文章筋トレ 10分+60分 編集済】


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