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何かを、失うとき

時差出勤はせずに9時に出勤することにしたぼくは、スマホのアラームを8時15分にセットして半地下カフェでタイピングを始める。今朝も通路を挟んで前の席には咀嚼音が激しいやや禿げ上がった男が座っている。

ぼくが座る位置から右奥にみえるテーブル席に座る客は、ぼくの来店後2番目にやってくるサラリーマン風の若い男で、資格の勉強をしているのか、珈琲を飲みながら分厚い参考書のような本をいつも読んでいる。遠い席に座るその男が読む本のタイトルは見えないが、何かの勉強をしていると思い込んでいるぼくは、その男が何を目指してどのように生きているのか、毎朝、思いを巡らせる。

禁煙席の客は、咀嚼音が激しいやや禿げ上がった常連客の男と、毎朝何かの勉強をしているサラリーマン風の若い男と、その客のことを書くぼくの3人で、壁の向こう側にある喫煙席には、おそらく8人くらいの客が座っている。

休日までのあと2日をなんとか踏ん張らなければ、というほど大変な仕事は目の前にはなく、一日過ごせばちゃんと一日が通り過ぎてくれる。仕事は1年を通じて忙しい時期もあるが、今はその時期ではなく過度なプレッシャーも感じない。前の部署や、前の前の部署では、毎日プレッシャーが波のように押し寄せてきて、その波の中でもがきながら溺れている状態だった。その時の精神状態がそうだったのか、仕事の内容がそういうものだったのか。おそらくそのどちらもなのだろうけど。

生きていると、時々大変な時期がやってくる。大変な時期というのは、過ぎ去ってはじめてその時の状況が把握できる。渦中にいると状況がよくわからない。なんとか抜け出そうとジタバタするが、全く抜け出せない。今になって当時を思うと、ジタバタせずに静かに過ごせば良かったのだと思うが、その時はわからないから、どうしようもない。その時期を過ごして成長できたかというと、ぼくは何も成長していない。生き物として傷を負い、生きることに対して懐疑的になった。まだ傷は浅い方だと思うが。

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大切なものを、失わないように生きることは、とても難しい。失いたくないと思えば、余計な力を使うことになる。それは不自然な力だ。不自然な力を使い続けると、大切なものを失うことになる。そのニュアンスはなんとなくわかる。失いたくない、という思いがつくりだす力によって、失う方向に引っ張られてしまうこと。これはモチーフ的なことで、若かりし日の思い出の匂いがする。

失いたくない思いを抑えても、結局は失う方向に引っ張られてしまう。そのような枠組みに入ること自体が失う方向に向かっている。失っても良い、という思いになると、その時点で本当に失う。枠組みに入るとどちらにせよ、失うしかないという結論か。今現在から失う時点を想像すると、哀しさや寂しさに襲われそうだが、失った時点に立つと、また違ったものとして、その時があるのだろう。

タイピングをやめて、鳴り響くスマホのアラームを止める。カップに残る冷めた珈琲を飲みほす。誰もいなくなった禁煙席を見渡して、仕事に向かう準備をする。

<了>


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