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衝動のち停滞

明るくなってきた部屋の布団の中で目が覚めた直後に身体が痛むのは昨日リンパマッサージを受けたせいで、寝返りするのが難しいほどのダメージが残っているのだけれど、これって身体に良いことなんだろうか。

書くことから遠ざかりながら実際は書いていて、感じが変わってきたその詳細を書くことはできないけど、芯にあった何かが小さくなる感じで、それほど悪くないのは、くすぶりが治まって外に表現する必要がなくなってきたから。

そんな時は、もうなんでもかんでも書いてみることで、なにもない、ことを書いていた時のように、なにかある、ことを書けば良いし、そういう意味では書くことはなくならないし、書き続けることはできるから。

情熱があろうがなかろうが、芯があろうがなかろうが、書くということの価値を失っても、書くことはできるし、それがほんとうに書くことなのかと問われると、よくわからないけど、私にとっての書くはそういうことで、昔も今も変わっていない。

テキスト入力マシンのポメラを持って喫茶店に向かって、座った席から見える景色をそのまま書けば良いし、瞬間的にキャッチする何かを書けば良いのだし、そのことと、他のことが競合して、他のことがしたいのであれば、他のことをすれば良いし、その隙間にある時間で、書きたければまた書けば良い。

いつもこんな感じで書いて、それで良いから、そのようにすれば良いからと書いて、進化しているつもりだったのだけれど、全く進化していなかったんだろうな。

このライン上に私はいるから、それでやっていけばいいし、進化したければすればいいけど、結局このライン上にいるわけだから、何も変わらずに何かが生まれるし、生んできたし、これからもそうするから。

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