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行き場を失っている感性のために

僕らには感性があります。
その感性がいい状態だと今日はうまく行っていると思うし、そうでないとどんよりと濁った気分になります。

日々さまざな事象にゴタゴタ遭遇していると、どうしても感性は不自由になり、伸びやかさを失うことになります。思わずゴタゴタの整理のために無理やり理屈を作ったり、そこに自己嫌悪をわずかに覚えたりもします。

感性を一人称で喋らせると「どこか気持ちのいい空に飛びたいけど何だか、飛べないなぁ、このところ」、そんな感じでしょうか。感性には翼があると仮定するとですね。

それで、僕は紫式部のことを思い浮かべるんです。

彼女は下級貴族の家に生まれ、親子ほど年の違う男性と結婚し、一女をもうけます。しかし結婚3年足らずで夫と死別します。大黒柱を失い、生活は苦しかったと思います。女性が自立するのは限りなく難しい平安時代、京都の空の下、毎日ため息をついていたのではないでしょうか。「あああ〜、これからどうしたらいいの? 本当に・・・」

現実の苦しさと未来への希望が見えない毎日が続いています。やがて彼女はある行為を本能的にスタートさせます。貴重な紙を文机にのせ、いつのまにか書き始めていたのです。感性の行き場を求めて。

夜、油を燃やしたチロチロとした炎で手元を照らしますが、時折消えそうに揺らぎます。ひとりぼっちの悲しさを紛らわすために、多くの登場人物を夢想し、その登場人物たちをドラマチックに動かし、筆を走らせました。その中心には輝く月のような光源氏がいます。

こうして、やっと紫式部はじぶんの感性という「HOME」にたどり着きます。

この物語を宮中の誰かが読み、その面白さは人づてに拡散していきます。読者の手紙ネットワークもできました。「ねぇねぇ、紫式部、知っている? いいよ、すごく!」。評判を勝ち得た紫式部は中宮の教育係として御所に呼ばれます。

源氏物語はさらに書き続けられ、宮中の女性たちが回し読むものになっていきました。早く次を読みたい!との声が御所にあふれます。やがて男性たちにもファンができます。「式部、今度は俺をモデルにした男を入れてくれんか」なんて図々しい高位の男子貴族もいたかもしれません。

こうして、人類史初の「小説」という個人の想像力をベースとした物語が生まれていったのです。紫式部は人類初の「小説家」になりました。

平安から江戸時代の終わりくらいまで、日本人はずっと短歌や俳句などの短詩を日常的に書きました。公家は無論、武士、代官、僧侶、町人、遊女に到るまでです。みんなじぶんの感性の行き場を作って、生きていたのです。嬉しい時、悲しい時、感動した時、挫折した時、定型のなかにその感情を残しました。四季への愛や、もののあはれを育んできました。

私たち現代人は歌を失いました。詩を失いました。感性は行き場を失って彷徨っています。歌や詩は、音楽のなかにも絵のなかにもあります。それらを創る行為は感性という翼を羽ばたかせます。

SNSの登場は、まさにその感性の行き場の登場だったと僕は考えています。しかし本当にそこに歌があるのか、詩があるのか。すべての人がふとした思いを寄せる美しい広場になりえているのか。感性のHOMEになりえているのか。これからどうしていくのか。紫式部ならどう思うのか。

源氏物語は全54帖現存しています。ただし印刷のない時代ですから、長い年月の間に紫式部の書いたオリジナルはすべて失われました。54帖はとても彼女だけでは書けない分量です。複数の紫式部がいて書き繋いでいったのだと想像します。才ある女性たちが参加し、企画する「チーム紫式部」ですね。

書く行為とは、コミュニケーションである。それは少し現代的すぎる考え方だと思うようになりました。コピーライターの僕も言葉はコミュニケーションだと信じてきました。しかし書く行為とはじぶんの感性を羽ばたかせるもの。それがまず揺るぎのない価値として先行してあるんだと今は考えています。

書きましょう。描きましょう。歌いましょう。感性の行き場がある人生は、きっとステキな人生だと思うのです。

(おわり)


*写真は、京都宇治市の宇治橋西詰まりにある、紫式部の像。宇治は源氏物語の最後に登場してくるゆかりの地です。




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