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映画短評第二十三回『エターナルズ』/偽りの自由意志

 今や映画産業の世界的稼ぎ頭となったMCUと、映像作家クロエ・ジャオとの融合。それがもたらしたチーム・メンバーの多様性、そして新たな歴史解釈は、アメコミ映画史上、いやアメリカ映画史上にも影響を与えていくに違いない。しかし、「あちらを立てればこちらが立たず」。要素としての革新性が、物語の持つ歪みを帳消しにしてくれるわけではない。

 天界人によって地球人守護の命を受けた超人集団エターナルズ。敵対勢力ディヴィアンツを滅ぼし、人間に紛れそれぞれの人生を手に入れていた彼らだったが、新たな危機の到来と共に再結集へと動き始める。

 宇宙の創造主たる天界人と、彼らの創造物にして使役人であるエターナルズ。本作の中心にあるのは、主人に与えられた使命(=目的)と私的な願望との間で苦悩しながら、メンバーそれぞれが個人として自由意志を追求していく物語だ。そしてこの物語は、天界人との対決という最終局面だけでなく、キャラクターたちのドラマにも見出すことができる。チームから離れる自由、戦いへの不参加の自由、使命遂行の自由、人間になる自由……。こうした自由な選択の積み重ねは、(『ノマドランド』のパンフレット内で本人が言及したように)「あなたを定義しているものを失った時、あなたは自分を取り戻せるか」というクロエ・ジャオ作品の主題につながるものだ。使命によって定義され縛られた使役人から、自らの意思によって行動するヒーローへと自分を変え、今まで守ってきた人々をこれからも守り続ける。まさにクロエ・ジャオ的スーパーヒーロー・ドラマが展開されていると言えるだろう。ただ一方で、自由意志の追求が許されなかった集団もいる。敵対勢力ディヴィアンツだ。
 本作中盤、彼らもまたエターナルズ同様に、惑星の生態系維持のため、天界人が創造した人工生命体であったことが判明する。エターナルズとディヴィアンツは、実質上兄弟姉妹だったのだ。数世紀の空白を経て再び現れたディヴィアンツは、エターナルズのメンバーを殺害し、その能力と知識を吸収する。そうすることで彼らは、本能的に捕食するようプログラムされた存在から、言葉を話す知的生命体に変貌を遂げる。そして彼らは、「ただ生きたい」という意思を言葉によって表し、天界人によって与えられた「地球人を捕食する」という"使命"を離れて、同胞を虐殺したエターナルズに「復讐する」という"選択"をする。つまり、ディヴィアンツが辿る物語は、本質的にエターナルズの物語と同じなのだ。ゆえに二者には、天界人に対して共に立ち向かうという協調への希望がある。
 しかし、「天界人=絶対的な意志」という固定観念に疑問を持ったエターナルズは、共通の創造主を持つことを知りながら、「ディヴィアンツ=敵」という固定観念だけは維持し続ける。ディヴィアンツは彼らと同じ人工生命であり、殺し食べるという選択肢しか与えられなかった存在だ。人に紛れて生活することのできるエターナルズ以上に、ディヴィアンツはその習性としても、また怪物じみた外見からも、苦を強いられている。にもかかわらず、地球人に害を与え仲間を葬った相手なのだと信じ込むことで、容赦なく八つ裂きにしてしまう。自由意志を獲得しようと創造主に挑むヒーローが、その過程で他者の自由意志を挫いているのだ。
 また注目すべきは、エターナルズが天界人に対抗するため編み出した連携技“ユニ・マインド”の描写だ。仲間同士の意識を繋ぎ、互いの能力を融合させることで力を増幅させるという技なのだが、その発動には個人の同意が伴っていないように見える。天界人に反旗を翻したメンバーも、与えられた使命に忠実であろうとしたメンバーも、(本作の実質的主人公で、エターナルズの暫定リーダーである)セルシが技を発動すると、ほぼ無抵抗でユニ・マインドに接続され、天界人打倒の武器の一部にされてしまう。ここに至っては、前述した個々の追求する自由は奪われ、セルシが天界人同様に、自分の目的のために他者を利用する存在になってしまっている(もちろん大半のメンバーが彼女に賛同してはいるのだが……)。本作の“ヒーローたち”が掴む自由の土台にあるのは、他者の自由意志の無効化ということだ。
 そもそもエターナルズにとっての自由とはなんだろうか。それは、メンバーの一人・ドルイグの行動と台詞に表れている。彼は人間の思考を操ることができ、その能力を使って人間から負の感情を消し去り、戦争や差別をなくそうと試みたのだという。しかし、「負の感情を奪ったら、人は人でなくなる」ことに思い至り、その計画を断念した。これは、先に述べたクロエ・ジャオの主題にも通じる思想の変遷と言える。しかしこの告白の数分前、彼は自分の住処を急襲したディヴィアンツに対して、生活を共にしている人間たちを操って銃を向けさせている。恐怖心の排除、人間の武器化が行われ、(仲間に諭されて止めはするものの)それはドルイグの現状の思想に明らかに矛盾している。少なくとも彼にとっては、人間の自由意志はエターナルズのそれよりも下位に位置付けられているように思われる。そしてその考えは、エターナルズ全般に言えることなのかもしれない。するとエターナルズが獲得するのは、人間と対等な自由ではなく、人間より優れた“神的な存在としての自由”であると言え、そこにはやはり、天界人とエターナルズの関係に似た上下関係が再生産される可能性も含まれている。7000年の時間を経てもなお、無意識の行動に表れてしまったエターナルズの非人間的な本性が、本作が抱える歪みをよりハッキリと浮かび上がらせているのだ。
 他者の自由意志の否定、自らが忌み嫌った階層の無意識的再生産、仲間内での自由の剥奪……これらが明らかにするのは、本作の「自由意志追求の物語」が抱える欺瞞性である。これが21世紀の神話なのだろうか? そして、マーベルはこの先にどのような答えを用意するのだろうか? 我々は数多くある美点を賞賛しつつも、本作の歪みに疑問を投げかけ続けなくてはならない。(文・谷山亮太)

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