なついけん

自分の命をより生きやすくする、そのサポートをしています。人は自分にしかないペースや自分…

なついけん

自分の命をより生きやすくする、そのサポートをしています。人は自分にしかないペースや自分だからこその「体験」が有りそれらを勝手な解釈で【生きにくくしているのは、自分自身】だったりします😌今まで8000人以上をサポート。 https://www.kenatsui.com/top-1

最近の記事

あなたの生きる意味は「あなたを生きること」という意味

自分の中心に流れているバイブレーションをちゃんと把握出来ているか?という問いに、YESであるならばその【場所】にいつも還ることを日常で繰り返しやっていくことだけ、何がやれているか?私はどんな人間だから、は考える必要はなく、その【場所】にいつも居ることで今の現実世界を生きていくことで自然と「あなたにしか出来ないこと」がやれている。これを我、自分だからこそ、と【場所】から離れ頭(思考)への意識が強まると、その我、自分だからこそ、という根源にある自己受容や否定、のバイブレーションが

    • 自分が持つ観念は何を今映し出しているのか?

      自分が持つ観念は、何を今映し出しているのか?思っている以上に自分自身が軸と成り、自分の現実を投影しているのだけれど、あまりに起こっている出来事や人に意識がもっていかれ過ぎて「私の持つこの映し出している観念は?」という根源を無視してしまい、いつまでも変わらないゲーム(現実)を投影し続けている。その根源に握る、自分が無意識でも選んでいる観念を気付くために今、目の前の出来事や人もちゃんと「演じてくれている」と考えられていくと、それはそのまま自分にも同じ事が言える。   と、なると自

      • 自分にとっての「幸せ充実感」という場所は、感じ取れているか?

        いい、そう感じれる出逢いや時間を過ごしていると、自分のハート部分がとても満たされていき、溢れ出るような「幸せ充実感」が広がる。これは個人的にはセッション中でも、その人にとっての【指針】として持っているように伝えている。現実は、まさにその自分の源からの選択が、創造しているから、その中枢となる場所が「幸せ充実感」に反応しているのならば、後は人や環境ではなくてその場所に居られるように日常でゲームのようにどれだけ出来ているか?を試してみるといい。それがそのまま、自分の波動や純粋濃度を

        • まずは、知る(自分の世界の意識に植える)ところから

          今、この瞬間に自分では気付けていない「自分という人間は、⚪︎⚪︎だから、××にする、とかの意識選択する癖」を自ら発動させ、発振していることをまずは【知る(自分の世界の意識に植える)】ところから。最近よく話している、脳への意識を減らす、脳はかなり優秀なので瞬時に過去生きてきた体験から自分らしさ、自分だから、という選択肢をする源となる在り方(発振源)を設置してくれるので、いかに表面的に変えたつもりでも結局、変わらないのはその在り方(発振源)を忘れているから👏   まずは【知る(自

        あなたの生きる意味は「あなたを生きること」という意味

          何を、よりも発振源の純粋濃度がどうか?を観れているだろうか

          「いつもと違う違和感」は、とても大切。自分の日常とはまた違っていると、それは「変化」の時でもある。今まで通りに固執している事も出来れば、違和感の感覚を信じてそこに飛び出していくのか、選択はできる。いつも話している事で、選んでいる現実は何だとしても、大事なのはその発振源、そこの純粋濃度がどうなのか?が、結局は自分の世界(=観えている現実)に成っていくので👏   何を、よりも 発振源、純粋濃度がどうか? メモを📝   個人セッション・Instagram PRサポート等 https

          何を、よりも発振源の純粋濃度がどうか?を観れているだろうか

          fear(恐れ)や不安からではなくlove(愛)からの発振ができているか?

          考えは、様々な経験や生きてきた中から判断や選択するものをサポートしてくれているけど、その「考え」が時に本来、純粋に自分内側から湧き出したことを「それはやったじゃん、意味無いよ、諦めなよ、、」と純度を下げてくる。濁りはそのまま自らの世界(現実)に発振され、ちゃんと同調され、還ってくる。最近、個人的に分かったのは脳への意識を出来るだけはがしていくと、その「考え」ではない純粋な湧き出す事にちゃんと気付けて、あとはいかにそれをそのまま「行動」に移せるか、はまた違う意識や現実訓練は必要

          fear(恐れ)や不安からではなくlove(愛)からの発振ができているか?

          「日常(自分の世界)」の中で小さな満足、喜びを与えられているだろうか?

          満足をする、それは小さな事でもよくて、自分の心が満たされていく感覚を日頃から自分に対して与えられているだろうか。自分が日々、創り出していく「日常(自分の世界)」は必ず自分が発振し、どう受け取れているか、でその「日常(自分の世界)」は同じ出来事や人であっても全く別のものになる。それだけ、自分が創り出せる自由があり、逆にこうだから、と自分を締め付け苦しくすることも出来る。自分次第で、目の前の出来事や人の色合いは変わり、そのまま自分の日常(自分の世界)も変わっていく。   小さな自

          「日常(自分の世界)」の中で小さな満足、喜びを与えられているだろうか?

          日常の中でいかに素のまま湧き出てくるまま行動出来るか、それが自分の生きるペースへの近道

          一つ、また一つ、自分なりの「生きるペース」をちゃんと把握出来ていけると、環境や誰が、と自分以外へのエネルギー流失は少なくなっていく。だからこそ、自分の中から湧き出てくる「私が今すべきこと」にも素直に耳に傾けられ、気付ける状態になる。そして自分も長年、一つずつやってきた人間として言えるのは、その湧き出ている事に対しての【瞬発力、行動する一歩】も合わせて大切。内側とのアクセスが濃くなればなるほどに、何故これを今?順序から言えば絶対こう、という倫理や自分が生きてきた世の中の常識とは

          日常の中でいかに素のまま湧き出てくるまま行動出来るか、それが自分の生きるペースへの近道

          決まっている、そう目の前の出来事や人との事を受け入れ始める世界は、、

          決まっている、自分の中でそう目の前の人生を思い受けとめ始めていくと、目の前の出来事や人に対しての【反応】にも気付き始める。どれだけ他人や他事に対して、自分のエネルギーや時間を費やしてしまい、どれだけそれらに対して悩み、愚痴、自分が本来望む状態からあえて自ら遠けているか、分かってくる。一見、受容のみに見える状態だが、実はその「受け入れる」が出来ていくと、自ずと自分の真の部分との繋がりが増し、湧き出してくるように「次は、これ、次はこう。」と、自分ならではの指針が湧き出てくるように

          決まっている、そう目の前の出来事や人との事を受け入れ始める世界は、、

          徳を積む、その本質的な意味とは?

          徳を積む、という事が「循環」という自分的な言葉にフィットしてきていて、最近はより分かった。どうしても人は「欲や自分という我」を表面に出していく事での見返りや分かりやすい廻っていくもの、に固執したくなるのだけれど、それのエネルギーは尖り、先鋭になるけれどその分細り、そもそも母体の「私」の負担もまた増えている。自然界には直線が無いように、そもそもの存在として生きている自分らにも同じ事が言えて、円、丸み、ご縁、という廻り廻っている事の前提を捻じ曲げないと、表面的には分からなかった「

          徳を積む、その本質的な意味とは?

          未来がある、と言いながらに「今、したい事はやれているのか?」と見返す大切さ

          「いつか、これから先に、、」その根拠はどこからくるのだろうか?人の寿命は産まれた時に限られてて、次の瞬間に皆生きれている保証はない。それなのに、今こうしたい、という想いがあるならば「まずはやってみる」をしてみてはどうかと👏何かしら自らが発振すれば、必ずそのバイブレーションに自分以外の存在は関わり、何かが「生まれている」。それをただ表面的に受け取りすぎて、やらない。になるのはもったいない、まずはやってみたいがあるならば、小さな一歩からでも踏み出してみよう。   個人セッション・

          未来がある、と言いながらに「今、したい事はやれているのか?」と見返す大切さ

          脳への負担をかけ過ぎていないだろうか?

          考えてばかりだと、脳は常に動き続けていて、自身の「隙間」が生まれずに自分以外へのやり取り含め、自身の心身に対しても一方的になり過ぎてはいないだろうか?自分の「隙間」がある程度あると、そこに「間=循環する空」が出来上がり、空は物事がちゃんと入りやすくなるので自分の今、目の前に必要としていることに対しても気付き、受け入れやすくもなります。一方的の突き通せる「時」であれば、それはそれで大事ですが、最近少し違うな、、と違和感があるならば「隙間」を生み出してみること、大切です👏   個

          脳への負担をかけ過ぎていないだろうか?

          決断をして、自分で「結果」を早とちりしていないだろうか?

          決断をしてみて、その結果に対して色々と反省をしてみる。その気持ちも、勿論分かるのだけれど、決断してからすぐに「結果」を求め過ぎてしまい、まだ実はこれから繋がったり形に成るプロセスがあるにも関わらず、自らが待てず押し切り、自分で「失敗」としてしまいがち。セッションでよく話を聴きながら感じるのは、【待つ、味わう】という段階を無視して自分で複雑にしてしまっている人が多々いる。思考の中でいくら解決しようと、思考の中に自ら創り出している「これはうまくいかないさ、自分には、、」などの選択

          決断をして、自分で「結果」を早とちりしていないだろうか?

          自分の中からの「発動」にどういう意味付けをしているのか?

          自分にとっての「コレをしたい」が発動した際に、どんな選択をその瞬間でしていけるのか?しているのか?それがどんなに時間をかけて発動を現実に出来ようが、この瞬間に発動のまま現実にすぐに出来ようが、その【出来ていること】がまずは大切であり、そこにあまり深い意味を置きすぎないこと。その深いと思っている事ですら、またすぐ次の瞬間以降には変わり続けていく発動の一部にすぎなかったりするから👏   個人セッション・Instagram PRサポート等 https://kennyfromhear

          自分の中からの「発動」にどういう意味付けをしているのか?

          解毒を誤魔化さず、味わいきる先にあること

          解毒、色んな自身の望む状態ではなかったり、人や出来事の中にいた時に、それを望まないからとそれから意識を外してしまったり、自ら誤魔化す選択肢をしてしまったりしがち。この「解毒」は、いい意味で味わったから抜けて解消されていく根源があったり、爽快な感覚値が訪れてきたり、すごくもう闇中でトンネル光が見え、もう出れる所まで来ていたりする。それをまた、自ら来た道を戻るような「体験」をしたくないのであれば、ちゃんと【味わい=完了】させていくこと。それが根源からの解消、次にスムーズに進む大切

          解毒を誤魔化さず、味わいきる先にあること

          自分の「決まり事」は自分の縛りや負荷に、今なっていないだろうか?

          自分なりの「決まり事」は、確かに強固なものを創り出して、判断も早く出来たりメリットも沢山ある。ただ、いつも確認して欲しいなってセッションしながら感じるのは、それが逆に今の自分にはフィットしていなくて【縛りや負荷】になって、身動き出来なくなっていないだろうか?変化は常に細胞が生き続けている限り、変わっている訳でそれを自分の【都合(こうで在りたい=思考や欲)】で押さえつけてしまうから、目の前の人や出来事が教えてくれるし、身体や心からも「反応」が起きている。を、まずは分からないと、

          自分の「決まり事」は自分の縛りや負荷に、今なっていないだろうか?