濱口竜介さんの『カメラの前で演じること』を今更読みましたが、ようやく彼の魅力がわかったかもしません。

私が濱口竜介さんの映画を初めて観てから、気づけば6年ほど経っていました。大学一年生のときに、ダサい格好と化粧で、同じ授業を選択していた友人と渋谷のシアターイメージフォーラムに出向き、失笑したり戸惑ったりしながらお尻の痛みにも耐え「ハッピーアワー」を鑑賞、浅い感想をレポートに綴ったのが最初であります。ついでに、今の恋人と付き合うきっかけになった話題は「寝ても覚めても」でした(爆)。花束みたいな恋をした、の押井守じゃないんだから。勘弁してくれ〜!

3年目OLになると(関係あるか?)、芸術家の言葉が全部胡散臭く見えてしまって、何も頭に入ってこないのです。アート作品の解説は、それが現代アートと呼ばれるものであれば特に、アーティストの身勝手な社会の要件とか生きるために大切なこととかをよくわからん単語を繋げてほざいていて、そしてその独りよがりな解釈に基づいて出てきた作品がコレ!呆れた!と、まあこんな調子で現代アートと私の相性は最悪なのでした(※)。
こんなことを言うと界隈から反感を買うのでしょうか……。でも、本当にそう思っちゃうのです。実家がお金持ちで、美大芸大の院まで進学できちゃって、地球の大切な資源を使ってよくわからないオブジェ作って、デジタルアートと呼ばれる分野ではエンジニアの出来損ないみたいなのがMacbookの出来損ないみたいなのを作って。

※そんな私にも好きな現代アートはあって、面白さや奇妙さや美しさ等々を追求したものは好きなのです。だってそれが本来のアートじゃん。社会風刺とか社会貢献とか問題提起とかそういう要素を含んできちゃうと、薄寒く感じるということを言いたいわけです。あったじゃないですが、現代アートの展示会場に何も知らないデリヘル嬢を呼ぼうとした件。だって、アートにかける時間を、インプットに割いたり、アウトプットするにしても、寄付してみたり活動してみたり寄付や活動を促してみたり文章にまとめて拡散したりしたほうがよっぽど効果的じゃないですか。せめて両輪でやるとか。主張には、それに見合った適切な表現方法というものがあるはずで、そこを見誤っている感が、金持ちの道楽感を拭えないのです。

ってこんな話(現代アートに対する罵詈雑言)をしようと思ったわけではありませんでした。
芸術家がその独りよがりな解釈で社会や世界を捉えて、そこにいる人々に対して希望を与えたるで〜!とか、一石投じたるで〜!とか言ってるおめでたい文章を読むと、どうも(というかマトモな感覚の大体の人間は)不愉快になってしまうのです。正直、濱口さんの『カメラの前で演じること』の第一章の内容もそうでした。というか何言ってるかほぼほぼわからん。
映画撮影の場でいかに自然発生的なアドリブを促すか、とか、被災者を撮影する際その言葉に耳を傾けるときにカメラがあっては云々カンヌン🤷‍♀️
そういう文章を読むと、この方もやはり芸術家のおぼっちゃまなのですね〜萎え、と思ってしまうんですが、でもその映画作品は凡夫の私を捉えて離さないのです。

多分、濱口さんの社会や世界の解釈は(語らせたら何言ってるかさっぱりわからんのだけど)、結構的を射ていて、その的を射た見方に基づいて映画を撮るんで、びっくりするくらい怖い。怖い?見透かされたような居心地の悪い気持ちがするものです。それも、こと恋愛においてなのです。やだな〜

濱口竜介さんは、ホンモノの恋愛映画監督というのが私的な定義です。河瀬直美さんが社会問題の映画監督、是枝裕和さんが家族の映画監督だとすれば、濱口さんは日本でおそらく唯一の、真っ当な恋愛映画を作ることのできる映画監督だと思います(最近キテる今泉力哉さんは?だって?帰れ!!)。

ここで、昔書いてたメモを引っ張り出します。

〜〜〜

マサオ・ミヨシによる、1980年代の日本の文化に対する「ポストモダン論争」へ一石を投じる寄稿が、課題文だったのだ。

全体の内容は省くとして、ここだけ引用。

奇妙なテキストは奇妙なテキストであると認められ、そしてこの同義反復は読者の近くからテキストを追い出す。人は、言ってみれば、本を閉ざすために本を開くのである。「非論理的」、「理解不能の」あるいは「支離滅裂な」とは言わないとしても、「微妙な」とか「叙情的な」、「暗示に富む」とかいう似非評言は、読書の場を騒がせ、読者の注意をテキストからそらしてしまうことによつて出会いの不在を隠蔽することを目指す。

この一節は、何を言ってるかというと、これは日本文学に対する当時のアメリカの論壇の批評についての批評なんだけど、「思考停止を促す単語」についての言及かと思う。

すなわち、日本文学を褒めるにしろ貶めるにしろ、その本質をブラックボックス化するような単語が、批評において多く使われていたという事実を指摘する一文だ。

このような態度は、対象を共有する学問集団にも見られるし、もちろん個人レベルの態度でも。ましてや、アカデミックな世界に限らず、マスメディアの世界生活世界でも往往にして見られる。

〜〜〜

ずっと前に大学の講義で受講した「現代文芸論」とかのメモでしょうか。綺麗さっぱり忘れましたが、この、マサオ・ミヨシさんのおっしゃることは、もっと抽象化というか、一般化できるだろうということで、昔の私はこれは!と感銘を受けメモしたんだと思います。忘れたけど。

小説でも、映画でも、恋愛の本質(というか本質に近づこうとする流れ。恋愛の本質なるものが本当に言葉や映像で表現できるかは微妙です。)をブラックボックス化して逃げちゃうものがとても多い気がするのです。踏み込め!もっと!踏み込め!え!?それだけ?終わり!?つまらんなーといつもなっている恋愛映画Lover、他にいませんか。

ミヨシさんにならい、似非評語ならぬ似非恋愛表現を思いつくもの出してみましょうか。

・村上春樹「ドライブマイカー」原作で、みさきさんが家福さんの奥さんの浮気に関して言った「女ってそういうものです」という発言。

どうしよう、これしか出てきませんでした……。
村上春樹がいかにしょうもなくてどうしようもないキモいおっさんか(少なくとも私にはそう見える)という話は今度長々したいと思います。

ここでようやくですが、濱口竜介さんの映画、特に台詞は(濱口さんの映画の魅力の7割は洗練された台詞なのですね〜)、似非恋愛表現が一切ないのです。
だって、似非恋愛表現を実際人間相手にしたら、舐めてるんか?ってなるので。話聞いてるんか?上から目線か?とか、そう受け取られる可能性が高いと思います。

濱口さんの映画に出てくる人々は、血が通っていて、一生懸命考えながら会話を進めるので、どの台詞もガチガチのガチです。

「ハッピーアワー」に登場する珠玉の台詞たちを、私がこれは!!!と思った理由とともに出していこうと思いますが、ちょっと長くなってきたので一旦ここまでとします。おやすみなさい。


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