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母のなかの「昭和」

僕の字は、母の字にそっくりだ。

学級懇談会のプリントや、小学校の「れんらくちょう」からは、驚くほどそっくりな筆跡が顔を出す。スピードを感じる「ハネ」、紙をぐっと窪ませるほどの「トメ」。横に広めな「いとへん」。横棒の曲がった「くさかんむり」。やや重心の低い「れんが」。挙げはじめればキリがない。


「息子がお世話になっております。今朝は熱も下がり...」

「PTA総会に出席させていただきます。」

「捻挫で体育の授業を休ませていただきます。」

「先日は引率、ご苦労様でございました。」


そっくりだ。僕もこんな字を書くのだ。


でも、この筆跡は冷蔵庫に貼られた「ぶた 500ぐらむ」「しいたけ 1ぱっく」の殴り書きとは違う。レンジに貼ってある「そっと しめろ」「おんせんたまご 30秒」とも違う。これは人の目を意識した「よそいきの」字だ。  

本当はそんなことないのに、トロンボーンとティンパニの区別もついていないのに、「よそいき」の母は几帳面で、厳格で、他者を思いやる余裕もあり、難しい漢字も読めて書ける。完全無欠な才媛を、母は演じきった。

そんな「ウチ」と「ソト」に、僕は「昭和」を感じずにはいられない。

何かと女性が苦しかった時代、定職にすら就けなかった時代。バカやってたお調子者の男子が銀行員に。あたしはお茶汲み。それが昭和。男の持ち物としての女という視線に、母は怒り狂っていた。

そして、角ばったボールペン字で、母は“武装“していた。

見ず知らずの時代でも、''今''とは全く切り離せないものだ。ネガフィルムのなかの時間も、凛々しい軍服のご先祖さまも、もちろん母の文字も。少なくとも、母の生きた昭和は、僕のなかで堂々と時を刻んでいる。母のささやかな”武装”は僕が生き続ける限り、解かれることはないだろう。

歴史は連続している。教科書をさかのぼれば色んな人がいた。

石器を打ち欠いていた原人や、ひたすら家に帰りたい防人、重すぎる年貢にブチギレた農民、見栄っ張りなお侍さん、身長より銃剣の方が長い軍人さん、ガード下で靴を磨くこども、ディスコで入社式をする若者、「のみすぎた すまん」と置き書きをする父、几帳面な字を書く母。

最終電車に間に合ったとき、トロンボーンをうまく吹けたとき、転んだけど怪我をしなくて済んだとき、僕は僕でないような気がしてくる。既に歴史の表舞台から消えた幾万のご先祖様が、僕の身体を借りているような、そんな感覚に襲われる。

誰かによく似た字で、僕は何かを伝えながら生きてゆく。僕らはすべての時代を背負っている。数珠つなぎの46億年の先頭を、全速力で駆けながら。

(く)








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