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彼の手のひら、体温の呼応

ふと思い出したから残しておこうと思う。

記憶の引き金は、岸政彦の『断片的なものの社会学』だった。

身体接触はもちろん、他人と身体の動きを同期させる程度のことにすら、ふつうは強い苦痛をともなうのだが、予期せぬかたちでふと他人の身体に触ってしまうことがあり、そしてとても不思議なことだが、それが強い肯定感や充足感をもたらすという経験が、ごくたまにだが、ある。

岸政彦『断片的なものの社会学』

この本は何度読んでも心がどきどきする。
私の探している言葉はここにあった、と思える様な何かを持っているから。

きっと岸さんは孤独な人だ。
とてつもない苦しみを経験し、人生にはどうすることもできないことがあると、人生のどこかで身を削って知った人だと思っている。

私も生まれてから22年間、本当に出会いに恵まれているのにずっと独りだ。

だからだろうか、誰かの身体に触れることはこんなにも祝福なのだと思えるのは。


好きな人がいた。

面と向かって大好きだと言ってくれたのは、彼が初めてだったように思う。

もう今はずいぶん遠くにいってしまったけれど、大事な記憶だ。

私は彼と手を繋いで街を歩くのが好きだった。
それだけでよかった。

人は人と一緒にいる時、心拍や呼吸が呼応するらしい。(「二者間同期」と定義され、さまざまな論文もある。詳細は調べられていないので、あくまで「らしい」と表現させて欲しい)

私たちはあまり話さなかった。

今思えば、話さなかったことが離れてしまう原因だったのではないかと感じるし、もっと話せばよかった、言えばよかったという思いはある。

でも同時に、街を歩く時の、あの静かな時間が好きだった。

気づいたら手を繋がれて、指を絡められる。
彼の体温が伝わる。
ちょっと強く握ったら、握り返してくれるところが好きだった。

何もいらなかった。
どこまでも歩けた。
街の音はすぐそばにあるのに、あまり頭に入ってこなかった。

どこまでも歩きたかった。
きっと記憶は美化されているけれど、あの時は、私と彼だけだった。二人でいたけど、一つみたいだった。

なんだか懐かしいな。
私は彼を嫌いになりたくなくて、嫌われたくなくて、静かに離れることを決めた。

付き合うことは傷つけ合い、赦し合うことだと気づいたのはその後だった。

本当はもう少し一緒にいたかった。でも、こんなにも大事な記憶が大切なままでいられているなら、もう十分なのかもしれないと、そう思うようにしている。



誰かに触れるということは、言葉をはるかに超えて何かを伝える力を持つ。

その人の心の奥底にある相手への想いが、感覚を通して繋がっていく。

人の体温の平熱は少し温かい。
その温かさは、人と人はただ触れるだけで良いのだと教えてくれているのかもしれない。





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