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あつまれ、一匹狼の森。

今は、携帯がないと生きていけない時代だ。

そんなことは、私なんぞが言葉にしなくとも、みんなガッテン承知のすけだ。

こんなデジタル社会になると、もし分かっていたなら、学生の頃からもっと興味を持っていたんだけどな......。
そんな始めから答えが分かりきったものなんて、どこにもないことに渇望してみる。
「パソコンが出た時ワクワクが止まらくて...,!」
なんて言葉を、一度でいいから、言ってみたかった。

私はといえば、デジタルへの探究心はもっぱら疎いほうで、
「今こんなのが人気らしいよ!」というものに、上手に対応できないまま、ずるずると来てしまっている。
とはいえ、仕事上やったほうがいいのでやっている、といった具合で、「心から湧き上がる程の好き!」ではないのが、ほんの少し悩みでもある。

自分を知って欲しい、自分を見て欲しい!という欲求が、どちらかといえば薄いほうだ。
それは今に始まったことではなく、昔からで、出来ればあまり目立ちたくないと思っていた。

そうなった事には理由があった。
それは「いじめ」だ。

私は学生時代に、壮絶ないじめに合ってきた。
みんなも、ちょっとしたいじめは、体験済みではないだろうか?
急に目を合わされなくなったとか、仲間だと思っていた友達全員に無視された、物を隠されたとか。

私はといえば、学校に登校したら机が学校裏の川沿いに捨てられていた、教科書が全部ビリビリに破かれていた、廊下に貼られていた自分の作品が赤インクで塗りつぶされていた、埋めるぞと言われた.....などなど、上げればキリはないが、
「そんなこと本当にあるの?」と、嘘だと思うほど恐ろしいことが、実際に起こったりするのだから、現実は不思議なものだ。

そんなもの、思春期のあるあるとして、流してしまえばいい。
今まで何度もそう言い聞かせてきた。

しかし、心の奥底に流れるモヤモヤ。
果たして何と対話をしているのか、自分でも理解が出来ない。
このモヤモヤモヤモヤモヤモヤ......。

それは人間ドックを受けて、
「あーあなた、ちょっと黒いものが見えますねえ。」と、言われる時のようなものだ。
外側からは見えないようにしても、たしかに存在しちゃってる、私の影ちゃん。

私は俗に言う、「上手く生きれないんだよね〜」といったタイプなのだろう。

誰かといても、何かに打ち込んでいても、心のどこかで、違う何かを考えてしまったりする。
人とふつうに話がしたいのに、
必要以上に色んなことが頭の中をドライブしてしまい、思ったままに、話が出来ない。
結局、たわいもない質問ばかりをしてしまい、楽しくなくなる。

一方で、自分の話をすることが、とてつもなく苦手である。
ホンネを言うことがこわいのだ。
それはきっと人を「恐れている」のだろう。それは、何かから怯えているようなものだ。

そんな私が、唯一心から自由になれた場所。そこは、フランス・パリだった。
自分のことを知っている人が、ひとっこひとり居ない...といったことも、大きな要因だったかも知れない。
それはそれは、鮮烈だった。

そのひとつは、美術館の多さだ。多いだけでは決してない、芸術への懐の深さ。
日曜日には公園でジャズライブが開催され、お気に入りのワインを手にゴロゴロしながら音楽に酔いしれる。
何百円かあれば、誰でもじゅうぶんに楽しめちゃうところも、なんかいいなと思えた。

さらに毎月第一日曜日は、美術館がフリーで楽しめる、という太っ腹さ。
街を歩くと、老若男女それぞれの今を楽しんでいる。
なんでもタダが良いとは思わない。
行きたいと思った所はちゃんとお金を払って行きたいし、どちらかといえば、無料というのはあまり賛成ではない。(ちょっぴり嬉しいけどね)

ただ、美術館がフリー(無料)ということに関しては、別の意味で評価するべきだと思うのだ。
毎月第一日曜日は家族で美術館へ行こう!なんてことが、フランスでは「普通のこと」として起こるしくみがそこにはあった。
率直に、ものすごく、羨ましかった....。

この世に作られるありとあらゆる「しくみ」とは、よっこらしょ!とならなくても、自然と動き出せる身軽さが手に入るということだ。

「とりあえず、行ってみる?」「やることないし、行ってみよー」「あ、なんかやってるよ!....入ってみよー」
そんな風に、身構えなくとも自然と美術館に足が向く。そんなしくみが、フランス・パリにはあったのだ。

私の場合、美術館に行くと、頭のなかの大掃除がはじまる。
そこにはいつも気づきがあって、感服する。
アーティストたちの葛藤、挑戦、錯誤....などに触れると、私の中に眠ってしまいそうになっていたファンクな気持ちが蘇る。

ふつふつふつふつ。

モジモジ君だった自分も、あっという間に覇気のある人間になってしまうのだから、芸術ってすごいなあと、いつも思います。
そして、芸術とはそうあってほしいと、切に願っている。

海外に暮らせば、家族とはすぐに会えない遠い所に身を置くということであり。
さみしくなったり、不安になったり、親孝行できているのかしら...なんて考えたり。

はたまた、すぐに会える所に身を置くようになると、いつでも会えるからと甘えてしまい、大事なことを口にできなかったり。

もー、なんなの?はっきりしないなあ。と、自分にモヤモヤしたりもする。

幸せに生きるって、どんなことを指すのだろう?と気になって読んだ本には、そんなことを考えないことが生きるということなんだ、と書いてあった。

私の脳みそは、そう上手くは機能してくれない。
普通はこう、こうするべきが上手く出来ない。
こうしたほうが良くないですかー?ということがあると、おでこにきっと「違うと思います」と書いてある顔を、してしまっているのだろう。


そんな話をしている間も、デジタルの世界はどんどん広がり、今やサロンやダオなんかもあったりすると聞く。(詳しくないです)

コミニュケーションは直接ではなくなり、デジタル上でやり取りをすることが、今や当たり前となった。

正直な話、今は頑張って書いている。そうして、デジタルをやっている。
でも、いつかは好きになりたい。
心の底から好きだからやっているんだー!!というところまで、いってみたい。

なぜそう思うかは、冒頭に話をしたように、
上手く生きてくることが出来なかった私が、おこがましいほど、仲間が欲しいと思ったことだった。

あまり心を開くのが得意ではなかった私が、
どうせ人生一度きりなんだから、やってみよう!と踏み出してみることにした。

今でも「こんなこと話したって誰か聞いてくれるかな..」と思っているし、
そんな、「私なんて精神」が身体中をはびこっている。

今まであまり自分のことは、語らずに生きてきた。
自分の人生なのに、誰かの人生を生きているような気さえする時もあった。


そうして、誰かと分かち合うことを諦めてきた、この何十年間。
その帳尻合わせをnoteでしていけたら、自分の人生が知らないほうに転がっていくような気がしています。

本当は誰かと話したかったんだ。

私と同じように、
誰かと話をしてもなんかスッキリしない。
自分の人生なのに、そのまんまの自分で生きていないような気がする。
自分の殻に閉じこもってしまいがち。
そんな方や、
同じような経験をしたことのあるよーと言う方たちと、ゆるやかにお話ししていけたら嬉しいなぁと思っています。

「もういいや。」って、どこかで諦めてしまった本当の自分。
よおし!と奮い立たせて、なんか一緒にやってみませんか。

こんなこと、やる柄でもないのですが。
望んでないのになぜか一匹狼で生きてきてしまった自分だからこそ、そんな一匹狼たちで集まったらたのしそうかも
......なんて妄想中。

てことで、
一匹狼あつまれ!


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