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愛しても愛しても、愛しても、足りない。

猫というものは、不思議である。

時折私は、

「この、家賃も払わない、労働もしない生き物のために、自分が食べるより高いおやつを買い、爪を切り耳掃除をし、大型空気清浄機を買い、こまめにブラッシングし、月に一度死闘のような戦いを繰り広げながら洗って乾かし、お気に入りの大切な衣類を毛だらけにして、1泊2日を超える旅行には行けず、危なくないようドアや戸締りや配線に気を配り、部屋に花やら置物やらを飾ることができず(倒されるから)…」とふと我にかえることがある。

が、

そんなこと心の底からどうでもいいくらい、うちのねこを愛している。

つかえることが喜びである。

黒い服が毛だらけにされても、食費を圧迫されても、夜中に鼻をフガフガされて睡眠妨害されてもそんなの痛くも痒くもない。

ねこが、そこにいてくれるだけで嬉しいのだ。
暇そうに伸びをし、丸まってすやすや、気持ち良さそうにとろっとろになって眠っている姿を見られるだけで、例えようもないほど幸せなのである。
そんでもって、寒い日の夜、ゴンロゴンロと喉を鳴らしながらベッドに登ってこられたり、その黒目がちなまんまるの眼でじっと見つめられたりすると、もう、この世の他の全てが一切どうでも良くなるくらい、愛おしくて、愛おしくて、奥歯が擦り切れてしまうくらい、ぎゅっと噛み締めても足りないくらい、喜びの感情が溢れて止まらなくなる。

猫は、生きている麻薬なのかもしれない。

***


いつから猫のことが好きだったのかというと、正直言ってよく覚えていない。

私は「猫が飼いたい」と親にせがんだ記憶もなければ、雨の日に段ボールで震える仔猫を拾ってきたこともない。
私の場合、猫というものは、物心ついた頃には既にそばにいて、我が物顔で家の中を歩き回っていた。

当時、オンボロな借家だった我が家に出入りしていたのは、近所に縄張りを持つ野良猫たちだった。私の母はわりと動物が好きで、彼らがのそりのそりと庭にやってくると、魚の残りや鰹節なんかをお裾分けしてやっていたのだ。

のら猫というのは、人間を使うのが実に上手い。

必要最低限に懐き、心を許したふりをして餌を引き出し、行けそうなら仲間も呼んでくる。安全ならそのまま家の中にも上がり込み、雨風しのげる居心地の良い場所を確保して居着いてしまう。
自由に出入りし、外で遊び、喧嘩をして、恋をして、帰ってきてご飯を食べ、体を休め、適度に甘えたり喉の下を撫でてもらったりする。
そして頃合いを見計らって家を出て行ったりもする。

束縛されないのに、欲しいものはもらう。
媚びているようでいて、実は操作している。

幼心に、ねこって賢い動物だなと思っていた。
そのガラス玉みたいな眼を覗き込んで、よく話しかけたものだ。

「あなた、ほんとは色んなことわかってるんでしょう、今は何を考えてるの」と。

彼らは何もかも知っているような顔をして、フン、と鼻を鳴らし、眼を逸らした。おまえら人間なんかに、教えてやるものか、とでも言うように。


***

いま、私は大人になって、念願叶ってねこと住んでいる。

自分で飼うことを決め、自分で会いに行き、自分で「この子を引き取りたいです」とお願いした、美しいねこだ。

白くて、少しグレーで、ふわふわで、肉球が作り物のようなピンク色の、たいへん上等なねこだ。

人間にいじくりまわされても滅多に怒らず、おっとりと落ち着いて、地響きのような大音量で喉を鳴らし、好きなおもちゃを見るとドスドスと飛んでくる(そしてよく滑ったり落ちたりする)、運動神経の悪いねこだ。


ねこが我が家に来てからというもの、私の生活はまるでモノクロ写真に色がついたかのように鮮やかになった。(いや、それまでだって、幸せではあったのだけど)

人生はバラ色という言葉があるけれど、ほんとうに、喜びの彩度が上がるのだ。ただねこが同じ空間に存在しているというだけで。ねこの気配を感じるだけで。

その柔らかい体や、ふわふわした毛並みや、ちょっとしたしぐさや表情が、その存在のすべてが美しく、時に不恰好で、うっとりしたり、吹き出してしまったりする。

こんな素敵なねこを飼うことができるなんて、人生は捨てたものじゃない。私は、自分が、心から欲しいと願ったものをこうして手に入れられるなんて、正直あんまり期待していなかった。

ねこは一体何をしてくれるのか?何もしてくれない。お皿も洗わないし話も聞かない。自分のお尻さえ拭かない。むしろ厄介なことばかりしてくれる。

うちのねこはヒモ状の物に目がないので、本を読んでいればしおりをちぎられ、リボンを結んでいれば齧られ、ズボンのヒモを狙って股間をパンチされる。

ワイングラスも割られたしバラも齧られたしフランステッドのモビールも壊された。

それでも、何ものにも代えられない。1億円積まれても渡せない。それくらい、大切だ。

***

うちのねこは、愛情たっぷりのブリーダーさんに大切に大切に育てられたねこなので、誰かに意地悪をされたことがない。敵に襲われたことがない。怖い思いをしたことがほぼない。(病院に連れていかれた時は怖かっただろう)

だからか、人を疑うということを知らない。

抱き上げられれば全身の力を抜いて身を任せるし、危ない状況になってもお腹をぺろんと出して寝ている。

「ああなんて無防備な、あんたこんなんじゃ生きていけないよ」

と思うこともあるが、よくよく考えたら、別にこのままでいいのだ。一生私たちがそばにいて、守ってあげられるのだから。

ねこは強くなる必要なんかないのだ。苦しみに耐える必要も、嫌な猫との付き合いを我慢する必要も、やりたくない仕事をする必要もない。

ただただ気持ちよく、心の赴くままに、楽しく健康に、生きて欲しい。

ねこの、なんでもない仕草を遠くから眺めているとき。その柔らかな体を抱きしめるとき。私の肩にすべてをまかせて脱力しているのを感じるとき。

この子もいつかは死んでしまうんだ、と思う。

それは私たちよりずっとずっと早く訪れる。

その日を想像すると、柄にもなく泣いてしまう。

温室育ちのこのねこに、いつか訪れるであろう苦痛を想像して、泣いてしまう。

私はそれに耐えられるだろうか、と思う。

***

なんだか湿っぽくなってしまったけど、私は、だからこそ、このねこを全力で愛そうと決めている。

あの時もっと遊んでやればよかった、とか、もっと可愛がればよかった、という聞き飽きた後悔など絶対にしたくない。

ねこ。

腕を伸ばしてすやすや眠るうちのねこ。そっと撫でるとむにゃーんとのびをする。

この、神の最高傑作、奇跡のようないきもの。

触れるとふわふわで、ふにふにで、とても暖かい。

何回抱きしめても、撫でても抱いても足りない。愛しても、愛しても、愛しても足りない。



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