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無難な服選びは、無難な人生をつくる。

最近、なんだか朝に億劫な気持ちになることに気付いた。

原因は、服選び。


そこまでファッションに興味があるわけではない私は、服をあまり買わない。
だから、同じ服を何シーズンも着るのが常だし、服を買う時は「着るものがない」という緊急事態になった時だ。


ちょうど数ヶ月前、春秋に着るような長袖のTシャツや薄手のニットがなく、例の緊急事態が訪れた。
その時、数枚を一気に買わないといけなかったので、「一気に買うならあまりお金をかけたくない」と、ファストファッションで無難なものを揃えたのだった。


その結果が、冒頭の状態。

せっかく珍しくクローゼットを一新したのに、「昨日はこれを着たから今日はこっち...」と消去法で決める日々。
そりゃあ、一日の始まりが消去法だったら、気分も乗らないわけだ。


私はそんなにオシャレ好きではないけど、やっぱり身に着けるものって、日々のテンションを左右すると思う。

お気に入りの服を着ると、それだけで気分がウキウキする。

家から駅まで歩く道のりで、ウィンドウに写る自分を何度も見ちゃったりして。
たとえそれが、くたびれたラーメン屋さんのガラス扉であっても。


お気に入りの服を着ているだけで、いつもの光景が輝いて見える。
そうすると、振る舞いや心持ちもポジティブになって、人生まで輝きだす・・・。


そう、私だって、服選びの大事さはわかっているつもりだ。
でも、少し油断すると、妥協の服選びをしてしまうのには、わけがある。

私には、「服を買う=悪いこと」という、トラウマがあるのだ。


私には一つ年齢が上の姉がいて、なかなかの「おませさん」だった。

東北の田舎町(というか、ほぼ村)の小学生のくせに、愛読書は女子大生向けのファッション誌。
(中学・高校時代には海外セレブのファッションスナップが載っているようなハイセンス誌を読んでいた)

私服は、小花柄のワイシャツとか、タイトスカートとか、およそ小学生が着るようなものじゃないコンサバOL風味な服を好んで着ていた。

そんなオシャレな姉だったが、コンビニまでも徒歩20分かかるような田舎の小学生なので、自力で服を買いに行くことができない。

だから、いつも母親にせがんで、買い物に連れて行ってもらっていた。と言っても、ジャスコだけれど。

私の住んでいた地域には、大型のジャスコが2つあり(通称・北ジャスコ、南ジャスコ)、姉は必ずその両方に行かないと気がすまなかった。

それどころか、2つのジャスコを回った後、「やっぱりあっちのジャスコにあった服がいい!もう一回戻って!」と言い出したりするのだった。

これには、運転手役の母もブチ切れ。買い物にいくと、いつも姉と母が言い合いのケンカをしていた思い出がある。


一方の母は、たいそうな倹約家。
家があまり裕福でなかったことも相まって、いつも1900円の服を買うのにも躊躇しているシーンを、よく見ていた。


こうして、この2人を見て育った私の中には、「服を買う=悪いこと」という感覚が根付いていったのだった。


ちなみに私も、高校生の時、それまでの鬱憤を晴らすかのように奇抜な古着ファッションに傾倒した。
当時、「同じコーディネートは二度としない」が信条だっという振り切れぶり。


ただ、最近は、一周まわって「無難なものでいいや」と元の私の価値観が顔を出してきていた。

それでも、生きていくには支障ないのだけれど。
こうも気乗りしない日々を味わって、改めて気付いた。

「消去法で選んだ服」を纏って生きていく人生なんて、消去法の人生にしかならない、ってことに。

おおげさかもしれないけど、考えてみてほしい。

365日、無難に「これでいいか・・・」くらいの、満たされない感覚になる服を着ていたら、どうなるだろう。

なんとなく、人前に出るのも気恥ずかしくなって、「私なんてそんな・・・」と卑下する言葉を思わず使ってしまう気がする。

しかも、毎日そんな風だったら、どんどんその思考が染みついていくのだ。

私は、そんな人生、絶対いやだ。


「お気に入りの服」って、何もブランド品とか、高価なものとかじゃなくていいと思う。

シンプルだけど形がきれいなものや、安いけど質が良いものとか、とにかく自分が「着るだけでウキウキする」感覚になれば、なんだっていいのだ。


ちょうど、そろそろ夏物が出始める時期。
夏物のTシャツやブラウスもだいぶ着古したから、今年は総入れ替えしようと思う。

その時は、「お気に入り」が見つかるまで、絶対に妥協しない。
毎日が、ひいては人生が輝くような、そんなクローゼットをつくるのだ。

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