35歳、アンチエイジングとの向き合い方
オンラインで人と話すことが当たり前になったおかげで、気づいたことがある。
それは、口元に「ほうれい線」が出来始めていたことだった。
コロナも落ち着いて、あたかも以前からこれが当たり前だったかのように、オンライン会議をしていたある時。
何気なく、画面に映る自分の顔を見てギョッとした。
口元の周りに、くっきり線ができていたのだ。
こ、これが「ほうれい線」か・・・。
愕然とした私は、もう自分の口元しか目に入らなくなってしまった。
その後、会議の話が頭に全く入らなかったのは言う間でもない。
アンチエイジングなんて馬鹿馬鹿しい、と思っていたのに
来年3月で35歳の私。
正直、美容関係にはめっぽう疎く、スキンケアも化粧水・乳液の最低限しかしていない。
それでも、もともとお化粧をガッツリしないのもあってか肌トラブルも少なく、百貨店の化粧品売り場で「肌綺麗ですね〜」と言われることもあった。
それで完全に慢心してしまっていたが、何を隠そう私ももう35歳。
四捨五入したらアラフォー。
よく考えれば、シワの一つや二つお目見えしてもおかしくない年頃に差し掛かっていたのだ。
2年前から、ハードワークだった会社員生活をドロップアウトしてのんびり暮らすようになってしまったせいで、余計に時間感覚が狂ってしまった気がする。
だが、私のそんな体感覚とはお構いなしに、時間はきっちり確実に流れていた。
でも、「ほうれい線ができた」ということ以上にさらにショックだったのは、「ほうれい線ごときに自分が打ちのめされている」という事実だった。
正直、これまでの私は、「アンチエイジング」に躍起になる人々を、どこか蔑んで見ていた。
だって、年齢を重ねれば、肌がたるむのも、シワができるのも仕方ないことなのだ。
その自然の摂理に必死に逆らって、お金を投じて、必死に「若づくり」しようとするのが、何だか滑稽に見えた。
例えるならば、下りのエスカレーターに逆らって、必死に登ろうとしているような感じ。
それよりもむしろ、シワやたるみやグレーヘアを必要以上に隠さず、堂々と小綺麗なファッションをしている人を「美しい」と思っていた。
自然に逆らわずに受け入れ、それでも、その年齢だからこその深みを体現しているような女性たち。
そういう年齢の重ね方をしたい、と思っていた。
「若さ」「美しさ」は、人類共通の美意識である
それなのに。
いざ、自分の顔に「ほうれい線」を発見したら、どうだろう。
もう気になって仕方ないのである。
Instagramやyoutubeで「ほうれい線 解消」なんて検索して、マッサージ方法や予防方法を次々とブックマーク。
お風呂上がり、ドライヤーをかけながら、「ポ」「リ」「バ」「ケ」「ツ」と口を動かしながら表情筋を鍛えるトレーニング。
さらに、「シワ予防には保湿が大事」と知り、乾燥肌の私にはマストだと速攻で卓上加湿器を購入。
メイクをしたまま使える保湿スプレーも用意して、肌の潤いを保つ環境をいそいそと整えた。
まさか、自分がこんなにアンチエイジングに取り憑かれるなんて・・・。
でも、自分が当事者になって、ようやく気づいた。
きっと、「美しさ」や「若々しさ」に執着するのは、人間にとって根源的な欲求なんだと思う。
だって、人物を模った有名な彫刻作品を思い出してみてほしい。
ミケランジェロのダビデ像だって、サモトラケのニケだって、大概が若くて雄々し男性か、若くて美しい女性だ。
(ニケは顔がなくなっているから正確にはわからないけど)
ヨボヨボのおじいちゃんの彫刻なんて、見たことがないじゃないか。
何千年も前から、しなやかなで若々しい姿が、「美」の一つの基準なのだろう。
突如現れたかに見えた、私の「若さ」「美」への執着も、きっと人類共通のDNAに刻まれた価値観なのだ。
それを見て見ぬふりして強がっていると、きっと肌だけでなく心もカサカサになっていく気がする。
だから私は、その願いをしかと受け止めるしかない、と腹を括った。
気になるものは、気になる。
前言撤回。やっぱり私は、若々しく美しい姿で、ありたい。
あぁ、これまで私が遠巻きに見て蔑んでいた、必死に美を追求していた女性たちに謝罪したい。
私が間違っていました、と。
そして、許されるのならば教えを乞いたい。
「シワが薄くなる、安くて性能の良いクリームはありますか」と・・・。
私とアンチエイジングとの、ちょうどいい距離感
一方で、「年齢を重ねたからこその”美”」に憧れる気持ちも、嘘じゃない。
お年を召した方にお会いすると、「たおやかさ」「おおらかさ」が滲み出ていると感じることがある。
20代の溌剌とした感じはない代わりに、地面にどっしり根を下ろしているような安定感。
それはまるで、雨も風も全てを受け止め、包み込めるほどの耐性を身につけてきた一本の樹木のよう。
そういう方に対峙すると、ものすごく「美しい」と感じ、涙すら出てくる時がある。
何だか、「あなたはあなたのままでいいんだよ」って言われているような、そこしれない包容力を感じるのだ。
それは、「若々しさ」が、「男性・女性」という「性的な美」だとしたら、「人としての美」とでも言おうか。
いや、人間なんて世俗的なものを超えて、「神々しい」とすら思うような「美」である。
その美しさは、青々しい20代や30代そこらで醸し出せるものではない。
少なくとも、頬のシワひとつでビクつくくらいの私にはまだまだ到達できない境地だけど、いつかはそうなりたいと願っている。
じゃあ、どうすれば私が憧れる人々のように、「経年の美」を体現できるようになるのか。
それは、「今この瞬間を愛おしい」と思うことなのでは、という結論に行き着いた。
私がアンチエイジングに躍起になる人々を少し嫌厭していたのは、「20代のハリツヤがなければ、自分には価値がない」くらいの強迫観念がある人がいるように感じていたからだった。
こういう人たちって、「自分の人生のエスカレーターは下っている」と思うから、必死に逆走したくなってしまうのだと思う。
そうではなくて、「人生には下りも上りもない」と思ったらどうだろう。
人生は、ただまっすぐ続いていて、いつだって前進している。
上や下と決めているのは「自分の価値観」なのである。
そして、どの時代が良かった悪かったではなく、いつでも「目の前にあるこの瞬間」の愛おしさを感じられたら・・・。
きっと、「今も今で、いいじゃない?」と思えるだろう。
「若さ」から生まれる「美」も、「年齢を重ねた」から生まれる「美」も、どちらも美しいことに変わりはない。
ただ、「美しさ」の質が違うだけ。
そう思ったら、「アンチエイジングに励みながら、年齢相応の美も大事にする」という一見矛盾する行為にも、答えを見出せたような気がした。
「美しく若々しくありたい」という欲求は、あっていい。
だけど、それが、老化の恐怖から逃げるための行為じゃなければいいのだ。
「今は今で美しい」。
その気持ちで自分に向き合ったら、自分のシワも愛おしく思えるかもしれない。
これが、今の私なりの、アンチエイジングとのちょうどいい距離感である。
・・・と言う訳で、「健全に前向きにアンチエイジングに励んでいこう」という決意を新たに。
私は今、卓上型の加湿器を繋いだPCでこの記事を書いている。
こんな微かなミストが本当にシワに効くのか?と思いつつ、しばらく使って観察してみようと思う。
最低でも、風邪対策にはなるし・・・。
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