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管理からマネジメントに飛躍する

倉貫義人さんのブログを受けて。いつもインスパイアされております。

私の経験から、私なりの角度で考えてみました。

マネジメントと管理

マネージャーをやっているが、実際に何をしているのか、と聞かれるとなかなか答えられない。行動としてやっていることはものすごく多岐にわたる。

マネジメントとは何なのか、ずーっと問いを持ちながら仕事をしている。

倉貫さんのこの解釈は、その本質をよく言い当てているように感じた。

そんなマネジメントを説明するのに、私が最近つかっている言葉は「いい感じにすること」。
色々な取り組みはあるにせよ、どんなことをしても「いい感じの状態」を作り上げることができればマネジメントしていることになる。社長だからこういうことをする、管理職はこういうことをしない、ではなくて責任を負った対象をなんとかするためには、なんでもするのだ。
「マネージする」というのは「なんとかする」といった言葉であり、その語源は馬を手なずけることからきているそうで、手を加えることで困難な状況をなんとか対処するということ。確かに日本語には無さそうだ。

「管理する」という日本語はこれとはニュアンスが少し違う気がする。

よくあるやつ。

・リストにして全体を把握する
・定期的に報告させて、うまく行っている確認する。
・うまく行ってなければ介入する。

これは実際にはタスクマネジメントだけど、マネジメントが「いい感じにすること」だとすると、このやり方はあくまで一手段でしかない。

まぁ色々とあるが、つつがなくタスクが処理されればマネジメントしたことになる。逆に考えると、もし一覧で管理しなくても問題なくタスクが処理されていくのであれば、そんな管理などしなくても良いのかもしれない。管理が手段であることがわかるだろう。

マネジメントをやっている人は、まずこの「マネジメント認知」の段階を乗り越える必要がある。狭義の「管理」をマネジメントだと思いこんでいる人は本当にまだたくさんいる。

そういう人には倉貫さんの本を読んでほしい。自分のチームで真似できるかできないかは置いといて、マネジメントと管理の違いはよくわかると思う。

わかっててもなかなかできない

次に立ち現れる段階としては、わかっちゃいるけど、なかなかできない、っていう状態。

私はここに長く留まっていた。

阻害するものは何だったか。

自分の経験を振り返ってみる。

「いい感じにすればいいんだ」という自分の役割にコミットできていなかった内面的な要因が3つぐらいあった。

1.スーパーマン的マネージャー像

マネージャー、管理職、今まで自分が出会ってきた人は、みんな、なんだかすごい人に見えた。あれもできたし、これもできたし。

「マネージャなんだから」などと、あたかもマネージャー聖人君子のごとく語られることがある。

世間的には、マネージャーとは、トッププレイヤーが一つ上の段階としてなるものだから、マネージャーはとても有能であるべきだし、人格もできあがっているべきである。

往々にして、マネージャーは給料を他の人よりもたくさんもらっている。

だから、マネージャーは凄い人でなければならない。


2.責任という皮をかぶった自責の念

チームや仕事の状況が悪いのは、マネージャーであり、責任をおっている「自分のせいだ」と、とにかく自分を責める。

他のだれのせいでもない、自分のせい。

自分の能力が足りないから。

他のマネージャーみたいに、スーパーマン的な自己でいられないから。

※今では、自責というのは他責とほぼ同義だと思っている。人間に責を求める点でそう変わらない。どういうことか知りたい方はこちらをどうぞ。

3.つらくて大変でつまらない仕事

マネージャーというのはすべての責任を負うから苦しい。

つらいときは自分を責めて責めてふるいたたせなきゃいけないから、それだけのタフさが必要。

苦難のしごとであるわけで、苦しいことが特段に好きな人でないと、全く楽しくない。誰もやりたがらない仕事。

マネージャーというのは誰もやりたくない「必要悪」なポジション。

「○○べき」に苦しめられる

いずれも、自分の中で作り上げた、苦しいマネージャーのイメージだ。

「いい感じにする」という目的よりも、「いろんなことができてすごくてマッチョでマゾな」という、何やらドラマチックで奇異な「手段としての」像にフォーカスがあたっている。

こうやって書いてみるとバカみたいだけど、今まで見てきた過去の管理職や、テレビドラマで見た「デキる上司」とか、そういう情報から形成されたマネージャーのイメージ。私以外にもこんなイメージを持っている人、いるんじゃないだろうか。

いずれも「○○べき」がものすごく強い。他者規定的なのだ。全く自己主導的ではない。

この見方、とりわけ日本では強いと思っている。

「中間管理職」「管理職」っていういう言葉を使うとき、だいたい、こういうイメージとセットだと思う。

だから、マネージャーってつまらなそうに思われるし、誰もなりたがらない、とか言われてしまうのだ。

「管理」から、いい感じにするという本質をついた「マネジメント」に飛躍できない人の多くは、こういう認知上の問題を抱えていないだろうか。

自己主導的なマネジメント像

倉貫さんが言う「いい感じにする」というマネジメント像は、他者規定的でなく、とても自己主導的な響きを持っている。

「なんでもいいからとにかくいい感じにすればいいんだよ」って、とても自由な感じがしないだろうか。

自由があるだけで、とても可能性があって広がりがある仕事のように思える。

もう一つ、私がマネジメントの認識を強く変えた言葉を紹介しよう。

マネジメントとは、正しく実践すれば、最も尊い仕事の一つである。人が学び、成長し、責任を担い、成果を認められ、チームの成功に貢献することを、これほど多くのやり方で手助けできる仕事はほかにない。

この言葉にはとっても助けられた。

「これほど多くのやり方で手助けできる仕事はほかにない」

この一節が特に大好き。

「これほど多くのやり方」、ってことは、何やってもいいんですよ?!

「ほかにない」ってことは、とてもユニークでクリエイティブな仕事なんですよ?!

心がフワッと軽くなった。

マネジメントとは本来、多様性に満ちている

ということは、ある一つのマネジメントをとっても、人によってやり方は変わるはず。

どんな手段であっても「いい感じ」になればよいのだから。

一人ひとり持っているスキルや性格が違うし。

マネジメントという仕事をそう捉えるとき、改めて、管理から脱することができない自分を阻害しているものがなんだか、見えてこないだろうか。

それは、きっと、「あなたらしく」、やってないのだと思う。

このようにマネジメントをする人、マネージャに求められる資質とは、全体を見て気配りをすること、そのために自分自身も含めて客観視できることだろう。

そんな自分を「客観視」して気づけたら、飛躍の準備はもうできている。

恐れを手放す

古臭くて他者規定的な「スーパーマンでよくてきたマネージャー像」は、実は捨てようとすると、怖くなる。

それを捨てて、自分らしいマネジメントを追求しようとするとき、「周りの目」が怖くなるのだ。

私の場合、経理のことをド素人でやり始めた経理業務マネジメントにおいて、「それは私には解決できない」と言うのがとても怖かった。

だって、経理スキル、知識が皆無。

そんな人間が、「経理業務内製化の計画・戦略を示す」なんて無理。

マッチョでスーパーマンな昔の島耕作みたいな管理職だったら、三日三晩、勉強しまくって知識つけて、「ほらできたました!」なんだろうけど。

徹夜すると持病がひどくなって体調悪くなるし、子育てしてるし、経理スキルの勉強ぶっちゃけ面白くないし。

だけど、「できない」「知らない」「解決できない」という態度を見せるのが怖かった。

旧来的で他者規定的なマネージャー像を周りも期待していると思ったから。

それを言ってしまったら、非難されてチームが崩壊すると思った。

根っこにあったは、そういう「恐れ」。

んで、どうやって、その恐れを乗り越えたかというと。

とあるチームビルディング的な場所で「そんなに色々できない」「無理です」「ぶっちゃけかなり駄目です」っていう自分を、ギリギリのところで、勇気をもって出してみた。

一度、これをやってみたら、その後、いろんな場面で、「誰かが持っているマネージャー像」という期待をスルーできるようになった。

その期待の多くは、「いい感じにすること」じゃなくて、「こんなやり方で」、っていう「像」に関する話がほとんどだ。こういうのには反応しない。ただ受け止めておく。「いい感じになってほしい」という願いだけはありがたく受け入れる。

私が考えるマネージャー像でもってして「これほど多くのやり方」で「いい感じに」すればよいのだ。

私は、時間をかけて、真に自己主導的なマネジメント像を獲得した。

マネジメントの解放運動

マネジメントというのは、社長だから管理職だから取り組むものではなく、人生における様々な場面で、いい感じにしたい対象があって取り組むなら、それはマネジメントであると言える。
誰かがするものではなく、誰もがするものがマネジメントなのだ。これがマネジメントの本質的なところではないだろうか。

だとすると、マネージャーというのは、どういう存在なのか。

組織という単位において、ある特定の事業やチームそのものを「いい感じにする」ための「象徴」的な存在だと考えている。

マネージャー以外の、チームメンバーもみんなが何らかのマネジメントをするのならば、それら多くのマネジメントの真ん中にいて、マネジメントというエネルギー活動の源泉になっている。そんなイメージ。

昨今、ティール組織がブームのようになっているが、あれは、いろんな意味で、「マネジメントの解放運動」なのだと思う。

・マネジメントを古い「管理」から解放する
・マネジメントをマネージャーだけのものから、みんなのものに解放する
・誰かが決めたマネジメントから、その人が創造したマネジメントに解放する

その過程で、今、苦しいと思いながらマネジメントしている多くのマネージャーの仕事は、もっとクリエイティブで、前向きな仕事になるはずだ。

まとめると

倉貫さんがマネージャーの資質とマネジメントの本質について語っていたので、私はそこに至るために多くの人にとって障壁になりそうなことを表現したかった。自分が苦労したから。

大変、個人的な経験でもあるので、同じようなケースがどれほどあるかわからない。しかし、他者主導から、自己主導へ、というのは、結構、普遍的なテーマ。

言うは易く行うは難し、の典型例だ。

マネージャーという職種にそれをあてはめると、ここで書いたことは、よーく引っかかるトラップだ。

肝は「恐れを手放す」こと。

勇気を持って、さらけ出すこと。

一回やれば、楽になります。

管理からマネジメントへ。多くの人が飛躍できますように。

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