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人のあるべき姿(寛容になろう)

はじめに(いつも書いてること)

このnoteでは、「仕事でも私生活でも心をラクにする(ワークライフハック)」をテーマに文章を書いています。

※「ラクする」というのは、「心身に苦痛などがなく快く安らかに過ごす」という意味で使っている言葉であり、シンプルに「サボる」という意味ではありません。

今回の内容

とあるメルマガで、このような内容が送られてきました。

※養老孟司氏の言葉
いまの20代の方々に参考になるような若い頃の体験談を話してほしい、とのご依頼をいただいたが、私の話をどこまでご理解いただけるか自信はない。街中にまだ牛や馬がたくさん歩いていた時代に幼少期を過ごした私の話など、いつどこにいても欲しいものが手に入り、スマホ一つで誰とでも連絡がつくいまの時代に生きる人には、とても想像がつかないだろうと思うからである。
ただ、皆さんがいま当たり前のように享受しているそうした豊かな生活が、突如途絶えてしまう可能性を常に秘めていることは理解しておいてほしい。このコロナ禍やウクライナ危機を通じて痛感された人も多いと思うが、日常というのはいとも簡単に壊れてしまうものなのである。ましてや私たちが住むこの日本は災害国家である。南海トラフ地震など、近いうちに確実に起こると予測されている巨大地震のリスクも抱えており、もしそれが現実に起これば、日本の社会基盤はたちまち崩壊し、多くの国民が衣食住にも事欠く状態に陥るだろう。
日本語の「有り難い」という言葉は、滅多に起こらないことを示唆している。当たり前と思い込んでいた日常を維持することの大変さは、年齢を重ねていかなければなかなか理解できないことではあろう。しかしこの記事を読んでくださっている若い方々には、災害とどう向き合うかも含めて、日常がいかに貴いものかということをまず心に刻んでおいてほしい。

さんまさんが言っているこの言葉も、同じようなことか。

「生きてるだけで丸儲け」(明石家さんま)
誰しも人生の中でうまくいくこと、うまくいかないこと、さまざまなことを経験する。この考え方が自分の身体の中に完全に浸透すれば、すべてのことが当たり前でなくなる。
このことにより、どんな状況に置かれても幸せな気持ちで生きていくことができるの。

僕自身は、「何気ない日常を財産に」ということを大切にして生きているので、上記の言葉には非常に共感します。

いつの時代も共通して、人のあるべき姿がここにあるんじゃないかなと思うんです。

まずは、感謝の気持ちを持って日々を過ごすだけで良い。

そうすれば、それに付随して、寛容な心が持てるようになったり、他者に優しくなれたりするんじゃないかな。

人はみな、それぞれの人生の中で、固有の体験をしています。

その体験は、誰かと同じものではなく、自分ならではのものです。

その『自分ならではの体験』に感謝して、生きてほしいなと思っています。

誰かと比較して、劣等感を覚えてネガティブに引っ張られてしまう人を多く見てきています。

ただ、「自分は自分でいい」とか「周りと比較しなくていい」という言葉を投げても、すぐには変えられないでしょう。

今までの価値観はそう簡単に変えられないという前提を理解しながら、長期的に心を変容させていくんです。

自分の体験に感謝して、自分を認めてあげてほしい。

自分を認めてあげることで、他者を認めてあげることができるようになるから。

感謝で溢れる世の中、寛容な心で溢れる世の中、個人を認め合えるような世の中をつくりたいから、自分がやれることをこれからもやっていきます。

以前、メルマガでこの本が紹介されていました。

不寛容論: アメリカが生んだ「共存」の哲学

このメルマガでは、「今の日本にもっとも必要なのは『寛容さ』である」ということを言ってます。

前提に、メルマガにはこのようなことが書かれていました。

塩野七生さんは、名著『ローマ人の物語』の冒頭で、こんなことを書いています。
<知力ではギリシア人に劣り、体力ではケルトやゲルマン人に劣り、技術力ではエトルリア人に劣り、経済力ではカルタゴ人に劣るローマ人だけが、なぜ巨大な世界帝国を繁栄させることができたのか?>
この「なぜローマ人だけが」の理由の一つが「寛容」だったわけですが、ローマ同様、この寛容さをもって国を大発展させたのが、アメリカでした。
本日ご紹介する一冊、『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』は、このアメリカの寛容論のルーツに迫る一冊。

以下は、この本からの引用。

自分の意志で所属を決める集団は、加入者に一定の資格要件を求めるため、内と外との区別が明確な輪郭をもった社会となる。だから「誰にでも開かれている」という意味での「寛容さ」をもつことはできない。つまり、自由な社会集団を作るには、どうしてもこの不寛容さを軸にしなければならないのである。無関心からくる寛容は、ひとたび風が来て自分の身に危険が迫れば、たちまち吹き飛んでしまう。
だが、ウィリアムズの説く寛容は筋金入りである。彼は、人間が何かを信じるということに、かけがえのない尊さを見いだした。
それは、自分とは異なる信仰をもつ人にも等しく見いだされる尊さである。信仰が自分にとってかけがえのない尊さをもつことを知っているからこそ、他人にとっても同じようにかけがえのないものであることが理解できるのである。

メルマガでは、『寛容さ』の大切さを説いていました。

「寛容さ」を欠いた社会に、明るい未来はない。なぜなら、多様性を受け入れない、実力を認めない社会には、真の実力者が集まってこないからです。

そもそも『寛容』って?

『寛容』とは、心がひろくて、他人の言動をよく受け入れること。他人の罪過をきびしくとがめだてしないこと。

引用:精選版 日本国語大辞典

埼玉大学大学院の准教授である宇田川元一先生の『他者と働く』を引用して、以下のnoteを書いていますが、『寛容さ』を考えることとリンクする部分があると感じました。

『他者と働く』には、こんなことが書かれています。

組織に問題があることはみなわかっている。けれど、どう向き合えばよいのかよくわからない。そうこうするうちに時間だけが過ぎていく・・・。そのような経験をなさった方も少なくないでしょう。そして、その問題からそっと目を逸らし、「すごい技術」や「すごい誰か」がこの問題を片付けるだろうと見て見ぬふりをしているようにも見えます。
しかし、「すごい技術」や「すごい誰か」は、なかなかやってきません。いくら知識を学んだとしても、私たちが見えていない問題や見ることを避けている問題に向き合っていかない限り、何も変わらないのです。
どうやったら私たちはよりよい組織、社会を作ることができるのか。もう一歩踏み込んで考えることができるはずです。
劇作家の平田オリザさんは、著書『わかりあえないことから』で、対話が日本で起きにくいのは、お互いに同じ前提に立っていると思っているからだ、と喝破しました。そして、お互いにわかり合えていないことを認めることこそが対話にとって不可欠であると述べています。これは大変鋭い指摘です。

『お互いにわかり合えていないことを認めること』が『寛容さ』とリンクすると感じました。

『他者と働く』では、対話のプロセスとして「溝に橋を架ける」ということを推奨しています。

そのファーストステップが「相手と自分のナラティブに溝があることに気づく」というものなのですが、「溝があることに気づく」上で『寛容さ』が必要なのかなと。

さらにこの本には、「引いた目で周りを見渡してみて初めて、わかりあえない人々との間に、大きな溝があることに気づくのです。」と書かれていますが、「引いた目で周りを見渡す」ということは、全ての人ができることじゃなくて、『寛容さ』を兼ね備えているからこそできることだと思います。

こんなPDFデータを見つけました。

最後に、ここに書かれている内容を引用して、本日のnoteを締めます。

NHKが平成 28 年 5 月に実施した世論調査の結果が公表された。それによれば,今の日本の社会について,自分と意見や立場が異なる人を認める寛容な社会であると答えた人が全体の 44%であったのに対して,自分と意見や立場が異なる人を認めない不寛容な社会であると答えた人は 42%であった。
寛容な社会であると答えた人の方が多いとはいえ,その差はわずか 2 ポイントである。ところが,今の日本の社会について,他人の過ちや欠点を許せる寛容な社会であると答えた人が全体の 41%であったのに対して,他人の過ちや欠点を許さない不寛容な社会であると答えた人は 46%と,逆に 5 ポイントも多くなっている。そして,関連するその他の質問事項に対する回答から導き出されたことは,今の日本の社会が「不寛容社会」であるという調査結果であった。
我が国では,昔から「郷に入っては郷に従え」の言葉があるように,私たちは集団への同化を求めがちだが,人間は多様であるということを前提にし,寛容で温かな社会の実現を目指したい。それはいろいろな人が心豊かに暮らせる「共生社会」でもある。
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小学校学習指導要領「特別の教科道徳編」の「相互理解,寛容」の内容項目の解説に次のように述べられている。人の考えや意見は多様であり,それが豊かな社会をつくる原動力にもなる。そのためには,多様さを相互に認め合い理解しながら高め合う関係を築くことが不可欠である。自分の考えや意見を相手に伝えるとともに,自分とは異なる意見や立場も広い心で受けとめて相手への理解を深めることで,自らを高めていくことができる。異なった意見や立場をもつ者同士が互いを尊重し,広がりと深まりのある人間関係を築くためにも欠かせないことである。
また,寛大な心をもって他人の過ちを許すことができるのは,自分も過ちを犯すことがあるからと自覚しているからであり,自分に対して謙虚であるからこそ他人に対して寛容になることができる。このように,寛容さと謙虚さが一体のものとなったときに,広い心が生まれ,それは人間関係を潤滑にするものとなる。
しかし,私たちは,自分の立場を守るため,つい他人の失敗や過ちを一方的に非難したり,自分と異なる意見や立場を受け入れようとしなかったりするなど,自己本位に陥りやすい弱さをもっている。自分自身が成長の途上にあり,至らなさをもっていることなどを考え,自分を謙虚に見ることについて考えさせることが大切である。
相手から学ぶ姿勢を常にもち,自分と異なる意見や立場を受けとめることや,広い心で相手の過ちを許す心情や態度は,多様な人間が共によりよく生き,創造的で建設的な社会を創っていくために必要な資質・能力である。今日の重要な教育課題の一つであるいじめの未然防止に対応するとともに,いじめを生まない雰囲気や環境を醸成するためにも,互いの違いを認め合い理解しながら,自分と同じように他者を尊重する態度を育てることが重要であると言える。今,ICTや人工知能(AI)が社会の在り方を大きく変えつつある。
子供たちが生きる2030年の社会の変貌は予測できないが,最後の砦は人間性にあると思われる。こうした展望のもと,寛容の心を育むことが今日的な課題であると考え,幼稚園・子ども園,小学校,中学校,高等学校,特別支援学校,家庭や地域で,どのような実践をしたらよいかを探ることとした。

『寛容さ』というのは、これからの時代において大切なキーワードになっていきそうですね。

「誰かのために」という起点ではなくて、「自分のために」という起点で、寛容になることを考えてほしいです。

『寛容』とは、心がひろくて、他人の言動をよく受け入れること。他人の罪過をきびしくとがめだてしないこと。

引用:精選版 日本国語大辞典

この意味からもわかるように、『寛容さ』を身につけたら、自分の期待が裏切られることによるイライラも少なくなるでしょうし、自分の中で「まぁいっか」という切り替えをスムーズにできるようになります。

それが結果的に、周囲の人に良い影響を与え、周囲との関係性も良くなることに繋がりますから。

自分の心をラクにするために、『寛容さ』を身につけていってください。

感謝

今回も、読んでいただきありがとうございました。


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