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3.11の記録・記憶

はじめに(いつも書いてること)

このnoteでは、「仕事でも私生活でも心をラクにする(ワークライフハック)」をテーマに文章を書いています。

※「ラクする」というのは、「心身に苦痛などがなく快く安らかに過ごす」という意味で使っている言葉であり、シンプルに「サボる」という意味ではありません。

今回の内容

2011年9月16日・・・大学院1年生の僕は、所属する研究室の調査部隊(建築構造設計の観点から被災状況を調査する部隊)の一員として、被災地に入りました。

当時、被災地で僕が残した記録を、そのままnoteに転記します。

建築構造設計の研究をしている立場として、主に建築物の被害状況を調査する目的で被災地に入りましたが、建築物の被害に留まらず、そこで目にしたことは僕に大きな衝撃を与えました。

中には、当時の被災地をリアルに表現した内容が含まれています。

つらい思い出があり、思い出したくない方は読まない方が良いかもしれません。

自己判断でお願いします。

直接見て感じたことを残したいと思うのと、生きてるだけで幸せなことだと感じる人が多くなってほしいので、この記録をnoteで公開することにしました。

以下、当時の記録をそのまま記載します。

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東北地方太平洋沖地震(地震としての正式名称)
調査記録をまとめるために残したもの

1日目

女川町→石巻市(大川小学校→石ノ森萬画館、旧ハリストス正教会→商店街→日和山公園→門脇小学校)

【女川町】
津波による被害が甚大で、ほぼ全ての建物が機能を失っていた。高台にある女川町立病院でさえ、2階部分まで浸水したという。基礎部分から転倒してるRC造(鉄筋コンクリート造)の建物がいくつかあり、津波の衝撃の大きさを実感した。基礎の設計に問題があるのかなとも感じた。
木造の建物は基礎部分しか残っておらず、そこに街があって、生活があったことなんて想像もできない程だった。ただ、残った遺品と献花がされていた場所もあり、確かにそこには生活があったことを実感した。
ぐちゃぐちゃになった車、あり得ない量の瓦礫、尋常じゃないくらいの衝撃がないと変形するはずのない建築部材、それと、肌で感じる空気、匂い。報道では感じることのできないリアルを感じた。
建築構造を学んでる立場からすると、想像もつかない被害であったが、それが現実。これからは想定外では片付けられない。これから建築構造について学んでいき、設計者として働くにあたって、あらゆることを想定した設計を、責任を持ってやっていこうと決意した。

【大川小学校】
大川小学校は、児童の7割が津波で亡くなった。学校の裏には、避難すれば助かったかもしてない裏山があったのに。
原因はいろいろある。避難経路の確保がおろそかであったこと、避難時の判断等。しかし、終わったことを言っても、それは結果論にすぎない。そこから何を学んで、今後に必ず生かさなければならない。
女川町では、この状態を記録に残しておこうという気持ちで、カメラを向け続けた。大川小学校はそんな気持ちになれなかった。写真を撮ろうと、カメラを持って出たものの、カメラを向けることさえできなかった。大川小学校に関しては、記録ではなく記憶に残さなきゃという気持ちに、自然になったからだと思う。
献花台には、多くの花と手紙、お菓子が置かれていた。手紙の内容を読んで、感情が込み上げて来た。「〜の結婚式には、いっぱいドレスを着せてあげるのが夢だったけど、夢は夢で終わっちゃったね。毎日会いに来るからね。・・・」という内容だった。
建築構造を学んでる立場として、建物に着目して見てくるべきだったのかもしれないが、献花台付近から動けなかった。遺族の方が献花台をきれいにしてるその姿を、ただ見てるだけで精一杯だった。この姿、この現場を、その場でしっかり目に焼き付けたかったから。
唯一したことは、児童が集まってた場所で、そこで津波に流されたという場所で、津波が来た方向を見たということ。その場所で先生の指示を待ってる時に津波に流された瞬間の気持ちを考えた。恐怖しかなかったと思う。助かった児童も、やっとの思いで裏山の木につかまり助かったらしい。
ご遺族の方には、心からお悔やみ申し上げます。
ここで起こったのは、二度とあってはならない惨事です。建物は無事だった。でも、人の命が残らなければ意味がない。建物が大丈夫でも、ちゃんとした避難経路の確保や震災を想定した避難訓練をすることで、人の命は救えるんだと思う。
今回の調査で、最も得ることが多かった場所だった。

【石ノ森萬画館、旧ハリストス正教会】
石ノ森萬画館は外観からの見た目では、構造的には問題のないように思えた。周辺の瓦礫は撤去されていたが、建物の復旧としてはあまり手が付いていない様子だった。
開館にはまだまだ時間が掛かるように思えた。旧ハリストス正教会は木造建築で、エントランスの柱が傾いていたり、壁がほぼ抜けていたり、津波を受けながら残ったことが奇跡と思える程だった。
要因としては、津波を受けながらも漂流物がぶつからなかったことが考えられる。この2つの建物は川の中州にあり、かなりの流れがあったと思われるが、中州にあったことで漂流物が少なくなったと考えられる。
また、この2つの建物付近の道路は満潮時に冠水する。これは、地震による地盤沈下が要因であると考えられる(地震以前からなのかもしれないが)。このことを考慮すると、この地での再開は難しいのか。

【商店街』
商店街のいたるところで、津波被害の様子がうかがえた。完全に復旧して商売を再開している店もあれば、手付かずの店も数多くあった。
石巻駅付近の道路は、いたるところで凸凹していた。地震によって盛り上ったのか沈下したのか、判断はできなかった。柱のせん断破壊が見られるのに、電気が付いており、使っていると思われる建物があって、とても印象だった。

【日和山公園】
ここから市内(海岸方面)を見渡した。震災以前の景色を見たことはないが、建物がぽつんと残るだけの景色を見て、津波の凄まじさを感じた。
被害を受けた建物のレベルから見る景色と、高台から見渡す景色とでは違う印象を受けた。高台から見渡すことで、津波の巨大さを実感した。建物レベルから見ると、津波の威力を感じた。この2つの視点から津波被害を見れたことは、良かったと思う。
高台から見渡すことでもう一つ感じたことは、街の音。重機の音しかしなかった。復興に向けて一歩一歩進んでるということを実感した。

【門脇小学校】
建物を見てまず感じること。前景は真っ黒で、ものすごい火災があったということ。津波によって流された車やプロパンガスによる火災だという。避難所として使用されていたこの小学校にいた人々は、裏山の日和山に逃げて無事だった。
建物を見て不思議だったことがある。向かって右側は1階から3階まで黒こげだったが、左隅は1階2階は燃えておらず、3階だけ黒こげだった。これは、右側から出火し、3階を渡って徐々に左側に延焼したが、左隅の1階2階には延焼しなかったことが要因だと思われる。また、黒こげなのは建物の前景だけで、教室内の掲示物はそのまま残っていた。
窓のアルミサッシが溶けてなくなっている教室もあれば、残っている教室もある。それが交互に見られた。とても不思議な光景だったと感じたと同時に、火災の凄まじさを感じた。被災直後は車や漂流物でいっぱいだったグラウンドも、半年経った今、グラウンドは表面の土を一層取り除き、きれいに整備されていた。
地元の人がいたので話を聞くと、被災当日の夜はこの辺りは真っ赤となっていたが、遠くから見てもどこが燃えているのか判断はできなかったという。

2日目

仙台市内(仙台中央ビル→免震建物をいくつか→仙台メディアテーク)→東北大学工学部→ハイネス荒巻→サニーハイツ→名取市閖上(仙台平野を車内から→閖上小学校)→仙台駅

【サニーハイツ】
傾いた耐震マンション。柱の表面にはせん断ひび割れ(建築物の自立において致命的なダメージを与えかねないもの)が多数あった(ほぼ全ての柱に見られた)。表面だけだから躯体としては健全なのかな?と思うが、不安感を抱かせる破壊だった。
マンションのエキスパンションの部分から、明らかに傾いていた。杭基礎が破壊している可能性があるらしい。L字建物だから、交差する部分で違う揺れ方をするため、L字建物の難しさを感じた。
また、上部構造が地震に対して持っても、基礎が潰れたら意味がないという点で、基礎設計の難しさ、大事さを実感した。
このマンションの隣には免震マンションがあり、免震マンションの方に傾いている。確かなことはわからないが、徐々に傾きが増しているらしい。そのこともあり、免震マンションの住民は、サニーハイツの取壊しを要求しているが、取壊しにはサニーハイツ側全ての住民の賛成が必要であるため、なかなか取壊しには至っていないという(耐震補強には全住民の2/3以上の賛成が必要)。
外観から判断しても、もう住めるような建物ではないし、隣の建物に被害を出す可能性があるのに、住民はなんで取壊しに賛成しないのか?と不思議に思った。金銭面等の詳しいことを知らないので、何とも言えないが。

【閖上小学校の体育館】
ここは、津波で流されたものを復元するための場所。写真、賞状、ランドセル、遺影、卒業アルバム等、様々なものが置かれている。担当チームの代表者の方に説明をして頂いた。
写真は海水に浸水すると、バクテリアの影響などで腐敗が進んでしまう。現在までに、全国各地の大学や高校、子供からお年寄りなどの協力により、多くの写真が復元され、遺族の方や親戚の方などの手に渡っている。しかしそれでも、復元されずそのままの写真が多くある。震災から6ヶ月経っているため、復元が不可能な写真もある。それらはCDRにやいて、最低限良い状態として保管しているという。
名取市閖上には7000人の方がおり、津波により1000人が亡くなった。無事だった6000人のうち2000人は仮設住宅に入居し、残りの方はいろいろな場所に分散し暮らしているという。家族全員が亡くなり、取りに来られるはずもない写真もいっぱいあるが、親戚やその家族と繋がりのあった方がその写真を手に取り、その家族を思い出すだけで、確かに生きていたという証になる。それが財産になる。
ここに行って、人と人との繋がりの大切さを教えて実感した。この小学校も、また使われるかもしれないという話がある。それでも、何人の方が戻ってくるかはわからない。特に若い人は、津波に対する恐怖心が植えつけられてしまったから。これから様々な復興活動が行われると思うが、震災前の状態に戻るのは難しい。その中で、何が復興なのかということをしっかり定め、それに向けた活動を行うことが大事だと思う。
担当者の方が特に言っていたこと。それは、津波の被害を受けた人とそうでない人の格差が広がってきているということ。津波の被害を受けた人は、半年経った今でもその恐怖心と戦いながら精一杯暮らしている。しかし、そうでない人は、徐々に津波での被害を忘れつつある。大きなニュースがあるたびに、津波被害の意識は薄れつつある。それが残念でならないという。学生である自分達に対して、社会人になっても今日感じたことを忘れずに、人と人との繋がりを大事にし、生きていってほしい。それが必ず自分にとっての財産になるから。と言って頂いた。
この日も体育館では、写真の復元作業をしている方、写真を探している方がいた。そこには多くの思い出があり、記録があり、記憶があった。この事実は大事にしないといけない。生きている自分達は、この事実を忘れてはいけないし、この経験を受け継ぐ責任がある。どう受け継ぐかは様々方法はあると思うが、どんな形であれ伝えるということが大事、ということを心から感じた。

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以上、当時の僕が残した記録でした。

これを読んで、つらい過去を思い出してしまった方がいましたら、大変申し訳ございません。

ただ、生きてるだけで幸せなことだと感じる人が多くなってほしいので、この記録を公開しようと決めました。

多くの方に読んで頂き、当時を知らない人に対しても受け継いでいく必要があると感じています。

僕が所属していた研究室の助教授は仙台出身で、震災が発生したまさにそのタイミングに、仙台市内の病院にいたんです。

助教授にとっては、自分が生まれ育った場所ということで、誰よりも想いを持って調査をしていました。

その調査に同行させてもらい、非常に貴重な体験をさせてもらったことに感謝するとともに、当時感じたことを僕の口からも伝え続けて、これから日本各地で起こるであろう地震災害への注意喚起をしていければと思います。

僕たちにできるのは、備えをすること、そして、今この瞬間を自分の意志を大切にしながら生きること。

マイナスな気持ちを持って生きている暇なんて僕たちにはありません。

目的を持って、目指すゴールに向かうために今何をやるべきなのかを考えて、今この瞬間を生きるんです。

感謝

今回も、読んでいただきありがとうございました。

他のnoteも読んでいただけると嬉しいです。


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