太陽【ショートストーリー】
〇
その日のことは、今でも鮮明に覚えている。
おぎゃあおぎゃあ、声がきこえた。それ以外の音はきこえない。
息を出し切った私の胸を、初めましての感情が満たしていく。
分娩室の窓の外、遠い空には太陽があった。
時間にすればほんの数秒だったと思う。私は太陽の姿を見た。ただの光じゃない。図鑑で見るような真っ赤に燃える灼熱の球体だ。嘘でも誇張でもない。それは紛れもない事実だった。
想像が広がる。私は宇宙服を着て、燃えさかる太陽と向かい合っている。凄まじい迫力だ。余りの大きさに、この位置からは太陽の全体像を把握できないけど、炎の海を飛び魚のように跳ね回る紅炎を確認できるくらいの距離。体中から吹き出す汗。気を抜くと、呑み込まれてしまいそうだ。
その時、休むことなくエネルギーを生む太陽と、生まれたばかりの赤ちゃんの懸命に生きようとする泣声が重なった気がした。視覚と聴覚と感情が、ピタッと合わさったというよりも、カチッとはまったような不思議な感覚だった。
「生まれたよ、男の子。がんばったね……、ありがとう」
旦那さんの声で、私の思考は切り替わった。
目を赤くした旦那さんが、私の手をそっと握ってくれた。私の好きなおっきな手だ。握り返す手にうまく力が入らなかった。
そこはもう宇宙空間ではなく、分娩室のベッドの上だった。太陽もいつもと同じ大きさで、眩しい光を放っている。まだ少し、頭がぼぉーっとしている。感覚が徐々に戻ってくると、汗で濡れたシーツの冷たさに思わず背中を反らした。
「具合はどう?」旦那さんが、額の汗を拭いてくれた。
「うん……、大丈夫そう。あのさ、あの子の名前なんだけど、『太陽』ってどうかな」
「空の太陽と目が合ったから。正解?」
窓の外を指さして、旦那さんはいった。
「半分正解、かな……。宇宙で目が合ったの。火の玉みたいな太陽と」
旦那さんは笑って、宇宙の意志なら逆らえない、と頷いた。いつだって私の意見を尊重してくれる人だな、と改めて思った。
山々に囲まれた静かな田舎で、私は生まれ育った。遊ぶ場所が限られていた私にとって、想像力こそが、遊びの種類を無限に広げてくれるものだった。これだ、と思ったら、直感を信じて、空想の世界に飛び込んだ。そして、自分で一から創りあげることが好きだった。十代の頃なら、私と話した人はメルヘンだといった。でも、二十代になると、私と話した人はキミヘンみたいな顔をした。その場は気丈に振る舞うけど、内心は悔しさでいっぱいだった。なにがいけないんだ、と唇を噛んだ。
旦那さんは違った。私の話に耳を傾けてくれて、一緒に物語を考えてくれた。みんなに合わせる必要はないんだ、とそのままの私を受け入れてくれた。
名前の候補はいくつかあったけど、結局、生まれたての赤ちゃんに、生まれたての『太陽』という名前をつけた。
初めて太陽に対面した時、まだ目も開けられず、くしゃくしゃの顔をして泣いていた。
「こんにちは。これからよろしくね……、太陽」
つけたばかりの名前を呼んで、柔らかな頬っぺたを指で撫でてあげると、太陽は気持ち良さそうにしておとなしくなった。その様子を、旦那さんが写真に撮ってくれた。太陽の寝顔を見ながら、私は静かに泣いた。こんな泣き虫じゃ、この子に笑われてしまうかもしれない。それでも、ずっと太陽を見ていると、涙は次第におさまっていった。
『太陽の前では、涙もかわいてしまうんだ』
私は、買ったばかりの小さな手帳にそう書き記した。
太陽の前で、もう泣かないことを心に決めながら。
こうして、太陽の観測日記が始まった。
三
幼い太陽は、甘えん坊で泣き虫だった。ひとりじゃ寂しいくせに、同い年の子供たちと馴染めないでいた。だから、保育園では、いつも先生の足にぎゅっとしがみついて、コアラのような体勢で過ごした。私が迎えにいくと、安心したのか、よく泣いた。そして、先生の足から私の足へと素早く移った。
太陽がぐずっていると、太陽を仰向けで寝かして、お腹のほくろを数えた。そのほくろを私は『黒点』と呼んでいた。
ずっと見ていると、太陽のお腹が光球に、ほくろが黒点に見えてきたのだ。ひとつ、ふたつ、みっつ、と数えながら、水性のマジックで黒点をたくさん描き足した。マジックを隕石に見立てて、太陽のお腹に次々と衝突させる。ヒュー、ストン。ボ、ストン。ワシン、トーン。私のいうダジャレを太陽も真似する。本物の太陽にこれだけ黒点があったら活動は穏やかになるけど、こっちの太陽はくすぐったいのか体をよじらせて活発になった。点と点を繋いでいって、お腹に絵や文字が浮かびあがると、太陽は嬉しそうに笑った。
お腹の絵を消そうとすると逃げ出して、走り回っては、二階にいる旦那さんに見せにいった。
旦那さんの仕事は絵本作家だった。うちの二階がその仕事場になっている。私は、大学を卒業し、働きだした出版社で旦那さんと出会った。子供の頃から、ずっと絵本作家になりたくて、絵ばかりを描いてきた旦那さんにとって、私が人生初の恋人だったらしい。付き合いだして数年、旦那さんが作った紙芝居でプロポーズされて、喜んでそれを受け入れた。私たちは結婚し、太陽が生まれてからは、庭付きのうちに三人で暮らすようになった。旦那さんの絵本の最初の読者は、もちろん太陽だった。
「色つけてもらったー」
しばらくして、太陽が二階から下りてくると、お腹の絵はカラフルに色塗りされていた。
「もー、旦那さんの邪魔しちゃだめでしょう」
「パパもおそろいだよ」
階段には、上半身裸で、すこし出たお腹に、顔を描かれた旦那さんが立っていた。器用にお腹を動かすと、絵が生きているみたいだ。
「もー、親子そろって……」
「ママも仲間にしてやる」
隠していた絵筆で旦那さんが、私の顔に色を塗る。
「太陽! 逃げないようにママを捕まえとけ」
「うん!」
眩しいくらい輝いた顔をした太陽が、コアラみたいに足にしがみつく。そして、普段、ほとんどメイクをしない私の顔は、とても派手にお化粧された。
その後、三人でお風呂に入った。三人で入る湯船はせまいけど、幸せを凝縮したみたいで好きだった。
「保育園で、みんなの中に入っていかなくてもいいから、太陽が好きなことをやってみればいいじゃん。こうしなさい、って決まってないんだよ。なにか始めてみたら、みんなのほうから太陽のところに来ると思うな。君は太陽系の中心なんだから」
おそらく最後は理解していないだろうけど、私はさっき見せた太陽の笑顔を思い出しながらいった。
「うー、うん」
短く返事をすると、太陽はお風呂のお湯をぶくぶくとさせた。
次の日、太陽は保育園でマジックやクレヨンを使って、自分の体に絵を描いた。何人かの子供がそこに集まってきて、描きあいっこ大会が始まったらしい。初めての友達もできたとか。帰り際、先生に、想像力が豊かですね、と皮肉ともとれることをいわれた。褒め言葉、褒め言葉っと。
『水性マジックは、宇宙に飛び出す彗星マジック』
だいぶ埋まってきた手帳に、私はマジックでそう書き記した。
十
太陽は十一年周期で変化する。それは、うちの太陽にとっても例外ではない。
小学校中学年になった頃、太陽はテレフォンカードを集めだした。男の子の収集癖というのは、私にはよくわからないけれど、旦那さんも子供の頃は、きれいな瓶を集めていたらしい。
集めたテレカはアルバムに入れて保存していて、友達がくるとお互いのコレクションを見せあったりしていた。外国の硬貨、カラフルな消しゴム、ペットボトルの蓋であったり、とにかく子供たちが面白いと思うものを持ちよった。
男の子の中に交じって、ひとり女の子もいた。その子は太陽のことをずっと見ていた。私は彼女のことを『ひまわり』と呼んだ。彼女を見ていると、実家近くのひまわり畑を思い出した。夏になると、畑一面が、シャワーヘッドのようなひまわりで埋め尽くされる。大輪の花たちが、青い空にある太陽を見つめて、日光浴を楽しむ。懐かしい風景だ。ひまわりの花言葉を思うと、いつも私はキュンとしてしまう。
「はい、おやつどうぞ」
「あ、太陽んちのツナボールだ!」
子供たちが、私が握ったおにぎりに群がる。
正直、料理は得意ではない。いつも旦那さんがシェフで、私がそのお手伝いということが多いからだ。唯一といってもいい得意料理がツナボールだった。とはいっても、温かいご飯にツナを入れて、バターと醤油で味付けして、丸めただけの料理だが、子供たちはいつも喜んでくれた。
「ねー、もう大丈夫だからさ。あっちいってよ」
私がなかなか部屋から立ち去らないと、太陽はこそっと耳打ちした。段々と恥ずかしさが芽生えてきたらしい。それに秘密ができると、隠すようにもなった。太陽は私に、テレカのコレクションを見せてはくれなかった。
息子の成長を感じながらも、余りにかまってくれないので、私は拗ねていた。今、思い返すとあの頃、私と太陽の精神年齢が逆転したようにも思える。
夕食の時、私は意地悪に、「今日、遊びに来ていた女の子かわいかったね?」ときいた。
「男だけで遊ぶっていったんだよ。でも、見てるだけでいいっていうからさ。だって、かわいそうでしょ」
一丁前に返しやがって、と私は脹れた。かわいそうなのは私だろ。照れてくれたらまだかわいいものを、なんてクールな反応だ。
『太陽に吠えたい!』
その日、私は手帳の一ページを使って、勢い任せの言葉をおっきく書き殴った。
十六
太陽が高校へと進学して、数か月が経った。
段々と帰宅するのも遅くなった。部活にも入っていないのにだ。遅く帰ってくると、晩ご飯を急いで食べて、すぐに部屋へと籠ってしまう。夜も遅くまで、部屋の明かりがついていた。一度、様子を伺いに忍び足で部屋の前にいくと、セクシーな女性の声をきいてしまった。しかも、外国の女性だ。そうか、そうか。太陽も年頃の男だ。エッチなDVDくらい見る見ると、私は自分にいいきかせた。リビングに戻ると、自分の小さな両胸に手をあてながら、そっちかぁ、と息を吐いた。
季節が冬になっても、太陽は遅くまで起きていた。私はその時期のことを『白夜』と呼んだ。太陽の部屋だけ、夜が明けるまで電気はつけっぱなしだった。朝になると、シャワーを浴びて、洗面台の前で髪の毛をねじっては、つんつんと立てて、朝ご飯も食べずに学校へと出かけていく。その繰り返しだった。最近では、三人でご飯を食べる機会もほとんどない。反抗期ってやつか、とも思ったけど、特に反発しているわけでもなく、私たちから隠れるようになっただけだから、日食かな、と呑気に想像していた。
ある日、旦那さんが太陽を怒った。旦那さんが怒るところを初めて見た。
「遅くなるなら、ちゃんと理由をいいなさい! 母さんだって心配しているんだ」
太陽は唇を噛むようにして、私のほうをちらっと見た。
そして、晩ご飯も食べずに、二階の部屋へといってしまった。旦那さんは、リビングのソファに座って、私に謝った。
「難しい年齢だね。素直になれないんだよな。特に、親には」
「旦那さんにも、やっぱりそういう時期はあったの?」
「自覚はないけど、話しかけても返事もしないで絵ばっかり描いていたって、親にはいわれたな。まぁ、そんなもんさ」
旦那さんは懐かしむように話した。
「それって、反抗期としてはまだかわいいほうだよ。私なんて兄がいたからさ。色んなものが飛んできたりしたんだから」
小学生だった私の頭上を飛ぶぶたの貯金箱のことを思い出した。それは、私の貯金箱だった。床に落ちた衝撃で、貯金箱は砕け散りお金が部屋中にばら撒かれた。私はわんわん泣いた。父と兄はお金を全部、集めて謝ったけど、お金の問題じゃなかった。私にとって、ぶたの貯金箱は友達だった。ピギーと名前もつけていたのだ。お金を入れるのも貯金のためではなく、お腹が空かないようにあげていただけだった。お金は戻ってきたとしてもピギーは戻らない。私はピギーの欠片を握りしめて泣き続けた。その日に、父と兄は仲直りした。兄の反抗期は、ピギーの尊い犠牲をもって終わりを告げた。
「ものが飛ぶって、お兄さん、昔は激しかったんだね」
物静かな兄しか知らない旦那さんは笑っていた。
「きっと、太陽なりの言い分はあるはずだと思うんだ。ただ、その理由を言えないだけで。何か諦めているんだよ。勝手に決めつけて」
「わからなくもないな」
私たちは片づけをしてから、暖房と明かりを消した。
夜、トイレに目覚めると、キッチンから物音がきこえた。時刻は午前二時頃だった。キッチンからぼんやりと明かりが漏れている。こっそり覗いてみると、太陽だった。お湯を沸かしてインスタントラーメンを作っている。私は気づかれないように背後へと移動した。
「ご飯食べないからだろ。不良息子」
後ろから太陽の両肩を掴むと、うひっ、と間の抜けた声を出した。
「な、なんだよ。脅かすなよ」太陽の表情には、驚きと安心が交じっているようだった。
「ちょっとちょうだいよ」美味しそうな匂いと湯気。
「やだよ」
「旦那さん、起こすぞ」
太陽は少し考えて、「……食ったら寝ろよな」といって、鍋にたまごを二つ落とした。
「ねぇ、ツナ缶もいれようか?」
「却下」
「えー、なんでよ」
「油っぽくなる」
「ライトツナ缶だから大丈夫だって」
「うるさい」
こんなに会話を交わしたのは、何か月ぶりだろう。キッチンに立つ太陽の後ろ姿は、旦那さんみたいだった。私の頭は太陽の背中の辺りだろう。いつの間にか、こんなに大きくなったんだなぁ。
ラーメンが出来上がるとカウンターに座り、しばらく黙って、麺をすすった。スープが冷えた体中を駆け巡るようにして温めていく。
「ねぇ、毎日、遅くに帰ってきて何してるわけ?」
「なんでもいいだろ」
「言えないってことは悪さしていると見なすよ。あっ、女か!」
いつかきいた外国の女性の声が甦る。太陽は麺を喉に詰まらせた。
「な、何いってんだよ! 違うよ、友達の家で映画を見てんだよ」
「映画ならうちでも見れるでしょ」
「そいつさ、大月っていうんだけど、映画オタクっていうかさ。色々なジャンルの映画に精通していてさ。教えてもらってるんだよ。んで、うち帰ってからも二、三本観てるの」
「なんだ、それならそうといいなさいよ。役者にでもなりたいの?」
そこで太陽は沈黙した。
「ラーメンは飲み込んでも、本心は飲み込むな。いってみないとわからないでしょ」
「将来……、映画の脚本を書いてみたいんだ。おれが脚本を書いて、そいつが監督で一緒に映画を作ろうってさ」
「いいじゃない! なんで素直にいえないかな。私は応援するよ。だから、こそこそ隠れていないで堂々としなさいよ。それにもう少し私たちを信用しなさいよね、家族でしょ。あと、なるべくご飯は三人で一緒に食べること」
「……わかったよ」
「よしっ!」私はスープを一気に飲み干した。
「じゃあ、ずっと前に、あんあん、いっていた女の声も映画だったの? 外国のさ」
思わず口にすると、太陽は顔を赤くして動揺しだす。
「は? 何だよそれ。こそこそとふざけんなよ。信用できるか!」
食べ終わると、太陽は部屋へと戻った。部屋の電気は消えていた。
『謎は解けた! 水金地火木土天解明!』
寝る前に、私は手帳にそう書き記した。
『輝け太陽!』
最後に短く付け加えて、布団へと潜りこんだ。
翌日、旦那さんに昨日の話がばれていて驚いた。声がでかすぎるんだよ二人とも、と嬉しそうに笑っていた。
二十
太陽が誕生して二十年。
高校を卒業した太陽は、映像の専門学校へと進んだ。都内で一人暮らしも始めた。太陽を玄関で見送った時、心が少し寒くなるのを感じた。いなくなって、太陽の有難みが身に染みてわかる。
二十歳を迎えるこの日、うちで太陽のサプライズ誕生会を開くことになった。同じ専門学校に進んだ大月くんの提案だった。太陽には内緒にして、庭でバーベキューをすることになった。何も知らない太陽だけが、昼過ぎに来ることになっている。
すでに太陽系の友達が早めにきて、準備を進めていた。下ごしらえや火おこし、それに撮影用のカメラを庭に設置している。旦那さんは縁側に座って、みんなと談笑していた。私はといえば、ビールを酒屋に買いにいった。
「この庭って、お母さんの趣味ですか? いい感じですね」
そういったのは、太陽系女子だ。女優もやるという彼女は、華奢な割にスタイルもよく、私は『ヴィーナス』と呼んだ。
「でしょう。まだ途中なんだけど、ここを楽園にするんだ」
うちの割かし広い庭を、私は最近、手入れすることに熱中していた。砂漠にあるオアシスを想像して、小さな池を中心に、寝転がれる芝や色鮮やかな草花を植えた。太陽が一人暮らしを始めてから、私も負けじと、ガーデニングを勉強し始めたのだ。
正午を過ぎて、主役の太陽が顔を出した。太陽がきた瞬間に、門の影に隠れていたみんなで、よく振ったビールをかけた。慌てて持参した箱を持ち上げた太陽だが、全身ビールまみれになった。なにすんだよー、といっている表情は柔らかい。
その後、シャワーを浴びる太陽を待って、改めてビールで乾杯した。バーベキューを食べ、映画談議に、太陽の昔話をしたり、日が暮れるまで誕生会は盛り上がった。太陽の周りには、本当に素敵な仲間が集まったなぁ、と心から思った。
次の日、太陽は、刺繍を凝らした麦わら帽子を私にくれた。昨日、持ってきた箱の中身は、私へのプレゼントだった。
「これ……、どうしたの」私は驚いた。出目金みたく目が飛び出していたかもしれない。
「一応、二十歳になれたわけだし。まぁ、その最近、ガーデニングするっていってたから……、もう歳なんだし、暑さでぶっ倒れられても困るしさ」
「育ててくれてありがとう、でいいだろ!」
太陽のお腹に軽くパンチをみまう。油断していた太陽は、咳き込んだ。
「息子の腹を殴る親がいるかよ……」
「ふふん。ざまぁみろ! でも、ありがとう」
麦わら帽子の中の匂いを吸い込む。なんだか懐かしい匂いだ。遠い夏の記憶を思い出す。あの頃から、何回めの夏なんだろう。色々あったなぁ。帽子で顔を隠し、零れそうになった涙を引っ込めた。
『太陽が太陽から守ってくれる。私は太陽をずっと見守ろう』
久しぶりに観測日記に書き記した。
ありがとう、太陽。二十歳になれてよかった。これからもよろしくね。
二十三
ここ数日、茹だるような真夏日が続いていた。扇風機が、冷房の効いたリビングの空気を循環させている。
おれは、リビングで眠る母さんの顔をじっと見ていた。
「撮影は大丈夫なのか?」父さんがテーブルに麦茶を置いた。
「おれは立ち合いだから、事情を話して抜けてきた」
「そうか」父さんは隣に座った。
「母さんってさ、昔から変わらないよな。これ、おれが生まれた時の写真だろ? 顔も髪型も全く変わっていない」
おれをあやす母さんの古い写真だ。化粧っ気のない幼い顔。真っ直ぐ切り揃えられた前髪と緩くパーマがかった髪。今と同じだ。
「目には見えないだけで、母さんだって歳を重ねている。子供っぽいけど、ちゃんと芯が通っている。お前を生んで、親としてもしっかりやってきた。それは俺が一番、知っている。母さんは強いよ」
父さんは窓の外をちらっと見た。陽射しがまだ、きつそうだ。
母さんが使っている机の引き出しに、おれに関係するものが丁寧にしまわれていた。写真や、水性マジック、テレカのアルバム、インスタントラーメンの袋まで様々だ。最初はそれが何を意味しているのかわからなかったけど、記憶を掘り返してみると思い出せる品ばかりだった。そこには、観測日記と書かれた手帳も何冊かあった。
その引き出しだけを外して、母さんのそばに置いた。なんとなくそうしてあげたかった。おれがあげた麦わら帽子も枕元に置いた。
「お前を生んだ時な、母さんは太陽を見たらしいんだ。しかも、宇宙までいって」
「宇宙の意志には逆らえない、みたいな? 母さんらしいけど」
「それ、父さんも思ったよ」父さんは可笑しそうだった。
観測日記をぱらぱらとめくってみた。
「よくやるよな。そうと決めたらとことんってかさ。そういうところは頑固なんだよな」
「まっすぐなだけさ」父さんも手帳をじっくりと見ていた。
でも、この日記はふざけているようで、おれへ向けたメッセージや思いが込められていることは理解できた。文字の線や大きさにもきちんと心情が表れている。些細なことまで、母さん流に捉えて書かれている。遊びだけじゃ、ここまで続けられないはずだ。どこから、そんなエネルギーが湧いてくるのか不思議なくらいだ。
「どっちが太陽だよ……、ったく。サンキュー」
そういえば、母さんに、素直に感謝を伝えたことなんてあっただろうか。不意に涙が込みあげた。でも、手帳の最初のページを見て、おれは笑顔を作った。
『太陽の前では、涙もかわいてしまうんだ』
その時、ぷふっ、と誰かの笑い声がきこえた。
「あっ……」母さんの口許が緩んでいる。
「いつから起きていたんだよ?」急いでおれは手帳を閉じた。
「『母さんってさ、昔から変わらないよな』辺から」
横目でおれのほうをみて、いつもの悪戯っぽい顔をしている。どうやら大丈夫そうだ。
「軽い熱中症らしいから、しばらくは安静にって」父さんが母さんの手を握った。
「ちょっと夢を見ていたみたい……。心配かけてごめんなさい」
母さんは少女のような笑みを浮かべた。息子としては、父と母のこういう場面には立ち合いたくはないが、少し羨ましくも思えた。
「あのさ、麦わら帽子かぶっていてもさ、水分とらなきゃ意味ないだろ」弱っている今がチャンスとばかりに、ジャブを打つ。
「あんた、引き出しどうしたのよ」カウンター攻撃。
「しょ、しょうがないだろ。保険証やら通帳どこにあるかわかんなかったんだからさ。それに枕元に置いておけば、蘇ると思ってさ」
「蘇るって、あんた勝手に死んだことにしないでよね」
「連絡もらった時は、そう思ったけど……」
父さんから母さんが倒れたと連絡をもらって、話を聞き終わる前に電話を切り、気がついたらうちへと向かっていた。
「二十歳過ぎたんだから、落ち着いて行動しなさいよ。大事な撮影なんでしょ。ほら、早く戻りなさい」しっしっと手で追い返すようにして、母さんはいった。「でも、来てくれてありがとう」
「いわれなくても戻るわ! 体、大事にしろよ」
そう返すと、母さんは舌を出して笑った。
一歩、外へ出ると、蝉の泣声と蒸し暑い空気に出迎えられた。
庭に咲いているひまわりが力強く咲いている。その先には、太陽がある。今、実際に見えている光が、百万年も昔に太陽の中心でつくられたものだと思うと、なんだかわからないけど感謝したくなった。
映画が完成したら、真っ先に見せにこよう。
そう心に決めながら、陽炎が揺れる道を駅へと歩き出した。
(了)
読んでいただきありがとうございます。
そるとばたあ@ことばの遊び人です。普段は400字のショートショートを中心にLIVE形式のnoteを書いています。
今週末の土日にかけてはそちらをお休みにして、過去に書いた作品や未発表の作品をnoteにupしていきたいと思います。
今日29日(日)は、DAY2 Sun Stage
5本の作品をupします。
このお話は、Sun Stageの5本目です。
2日間に渡って、過去作や未発表作を中心にnoteにupさせていただきました。
読んで下さった方、改めてありがとうございます。
週末の外出自粛などを受けて、ショートショートを書いている者として何かできることはないかと考えた結果、少しでも楽しんでいただけるならと思い、もうどこにも出すつもりのなかった物語たちをupさせていただきました。
昔の作品だから恥ずかしいとかそういう気持ちは不思議とありませんでした。読んだ方が笑ってくれたら何よりだなぁと、ただそれだけです。
今までの普段の生活や楽しみが、変わったり、なくなってしまったり、本当に精神的にもタフな時だと思います。
外出は自粛しても、それでも生活は続いていく。
家にこもりながらも、自分ができることを考える毎日ですが、いつかまたたくさんの人たちと大声で笑いあえる日のために、もっと勉強して、もっと考えて、もっと楽しい作品を書けるよう、自分を磨いていこうと思います。
(↑DAY1 Moon Stage)
(↑DAY2 Sun Stage)
(↑400字ショートショートを中心にしたLIVE形式note)
文章や物語ならではの、エンターテインメントに挑戦しています! 読んだ方をとにかくワクワクさせる言葉や、表現を探しています!