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旅先での相談事-最後の恋のはじめ方-

「一秒ごとに表情が変わるね」
まじまじと顔を覗き込みながら言う。

だったら、その一秒ごとの表情を見逃さないでね。

海の表情も、くるくると変わる。
昼過ぎまではあれほど穏やかだった水面が、今はざわめきたっている。
垂れ込める雨雲が何度となく断続的なスコールを呼んでいる。

移り変わる表情を見逃したくないから、飽くこともなくただ海を眺める。

変化することは楽しい。
変化するものを眺めるだけでも楽しい。

何もない島なので、何もせずに過ごしている。
むしろ、ちょっとした風や光の変化に敏感になる。
徒然浮かんで消える言葉を一つ一つ拾い取るようにタイプを打つ。

「旅先でむしろ時間があるのかなと思って」と言って、夜、友人が電話をしてきた。
こんな静かな夜、遠方からの電話はかえって嬉しい。
彼女とは、旅立つ前日にオフィスの近くで2時間ほどお茶をしたのだけれど、「あのとき話したかったのに話せなかった」ことがあるのだと言う。
「どうしたの?」と訊くと、先日は「もう全然いいの。愛が憎しみに変わっちゃった」なんて軽く言い放った事柄を「本当はね」と打ち明け始めた。

「愛が憎しみに変わった」なんていう言い回しは昼ドラかレディースコミックのようだが、それが自嘲と照れ隠しであることは容易に想像できる。
言い換えれば、「憎いけれど愛しているの。愛しているけど苦しいの」

話の詳細を一区切り聞き終わって、彼女が「憎しみ」とも呼ぶその苦しさについてはよく伝わった。
「彼が全面的に悪いと思う。あなたがそこでとてもとても苦しいことも本当によく分かる」と言うと、彼女は「ありがとう」と言った。

私は人のことを言えた立場でない。
何より不器用だし、しょっちゅう失敗ばかりしている。
だから、せいいっぱい彼女の身になって答えてみても、大して実になる話にはならないかもしれない。

うまい作戦は描けない。
描いてみても、その効果は保証できない。
私ならどうするかなと考えて、一番心が安定しそうな解を探すしかなかった。
ただ正直になるくらいしかないんじゃないか、という芸のない答え。

「最後の恋のはじめ方」というラブコメディでは、ウィル・スミス扮する恋愛コンサルタントがモテない男性たちが意中の女性を射止めるための数々の手を教唆する。
また別の映画で、「出会いは演出、継続は努力」という台詞もあったが、多かれ少なかれ、それは当たっているかもしれない。
「はじめ方」には一種の技術があるかもしれないが、「続け方」については、駆け引きは必ずしも得策でないような気がするのだ。

あるいは、それが本当に「最後の恋」なんだとしたら、駆け引きなんて介入する余地はないんじゃないかと、そんなふうにも思う。
小手先で対処していくような類のものじゃない。

「最後の恋のはじめ方」の中で、主人公は「はじめ方」に長けるものの「続け方」を知らない。
人を好きになると、その裏返しにみじめな気持ちがついてくる。
恋は人を愚かにし、滑稽で真っ裸でどんくさいものにする。
些細なことに心つぶし、不安にもなる。
幸福な気持ちばかりで構成されるならそれに越したことはないが、実際には、誰もが知っているように、それは綺麗にやりきれるものではない。

続け方を知らないのは、みじめな自分が許せないからだ。
そんな自分を見たくないから。

みじめになるくらいなら、そんな恋はしないほうがいい?
みじめになど一度もならない恋がしたい?

どんな恋がしたいかとか、どんな関係が作りたいかということよりも、私なら、相手とならどんな恋ができるか、どんな関係が作れるかと考えたい。
したい恋や、欲しい関係に当てはまる人を探すというやり方に、私はどうしてもなじめない不器用人間だ。

そういうわけで、私が友人にすることができた話は、あまりにも直球勝負だったのだけれど、それでも彼女は「そんなアドバイスをしてくれた人は初めて。なんだか心が穏やかになった」と言ってくれた。
「それならよかった」と思う。

「ただ大切なものを大切にする」というあらゆる人がそうありたいと望むことを素直に正直に実行することができたら、どんなにいいだろう。

くるくると変わる表情を、一々に好きか嫌いか考えるわけじゃない。
海を観察し、海を知り、海を愛して、海との付き合い方を習得していく。
海と私との二つとない関係が、やがて一番すわり心地の良いかたちで培われていく、そういうもののような気がしている。

最後の恋のはじめ方 Hitch(2005年・米)
監督:アンディ・テナント
出演:ウィル・スミス、エヴァ・メンデス、ケヴィン・ジェームズ他

■2006/1/19投稿の記事
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