右へ曲がる道-解夏-

スカイブルーの陽気に駅までの道を歩くと、そこまで近づいた夏を感じられる。
30回目の夏が来る。

夏は、心が遥か旅をする。

故郷は、一級河川をはさむ河岸段丘の地形に田園地帯が広がる地域。
神戸から小一時間の距離にあり、阪神地区の大工場に卸す部品工場や、労働力がベッドを構える新興住宅地が活気を与えている。

中学までの同級生の多くは、今でもこのまちで暮らしており、今後もその生活を守っていくだろう。
これといって目立つもの、流行のものはないけれど、住むにはちょうどよい大きさのまちだ。

私は、ここを18のとき後にした。
もう12年も前のこと。

中学と高校の頃は、毎朝自転車で家を出た。
自宅は高台にあったので、行きは長く急な坂道を下り、帰りはその道を自転車押して上る。

家を出て右へ行くのが中学への通学。
左へ行くのが高校への通学。
右のルートは夏を思い出し、左のルートは冬を思い出す。

右への道は、小さな森を抜ける緑の道。
左への道は、冷たい朝の空気を突っ切る河辺の道。

どちらも好きな道だけれど、やはりこの季節に想い馳せるのは、右への道。

緑の道。

その道は、車一台分の幅の、舗装もままならない砂利の坂道から始まる。
田園の間をブレーキもかけずに下り、時にはわーっと声などあげながら、高すぎる空へと心をあずける。

夏だ。暑くて、時が止まったかのような、夏だ。

やがて道は、ほんの小さな森へ差しかかる。
茂みと言ってもいいほどのささやかな緑の集合体で、下り道であることも手伝えば、横切るのにほんの数分とかからない。

私が好きなのは、その森が作る若葉のトンネルで、蝉や木ずれが賑わしい静寂。
キラキラと木漏れ日が眩しくまだら模様つくる抜け道。

トンネルは交差している。
私の行く道と、それと垂直に交わる線路のそれ。

その森を神戸電鉄の単線路が走る。
私の行く道は、その線路にかかる小さな陸橋を経る。

森。線路。陸橋。

特に印象深いのは、夏休みの部活の帰り道で、行きとはうってかわって上り坂。
勾配がきついので、根性なしの私は自転車から下りて、それを押す。

蝉の音はうるさい。
蜩の音は切ない。

坂をほとんど上りつくしたところで陸橋に出て、もう自転車をこげるくらいの角度になっても、私はそこを渡り終えるまで自転車を押す。
むしろ、ゆっくりと息をつく。

白い襟に紺のリボンのセーラー服が、誰もいない道で立ち止まる。
ここは人も車もほとんど通らない。
それがまた、好きなところ。

陸橋の上から、線路を見下ろす。
それは南の方には見渡せる限りまで続き、北の方には程なく曲がって緑の陰に消える。

中学に上がるよりも前は、白い石の欄干に腰をかけ、素足をブラブラと宙ぶらりんにさせながら電車を待った。
安定感は十分にあるすわり心地だったけれど、少しドキドキとした。
赤と白の車体の電車は時折遠くから近づいてきて、ガタンゴトンと音を立てて私の足元を過ぎ去る。
折り重なる葉の隙間をくぐり抜けた陽光は、車体にも涼しげな陰を与える。

電車に乗って、その場所を見上げれば一瞬に通り過ぎてしまうけれど、陸橋から眺めれば、半ば永遠の出来事だった。
その電車の終点は、小さな私にとってみれば、あまりに遠い場所だったのだ。

素足の私は、その橋の上で、セーラー服の私に出逢ったような気がする。
そしてセーラー服の私は、素足の私に出逢ったような気がする。
お互いに、その橋の上で足をとめて、近づいてくる電車の音を待った気がする。

緑に隠された秘密の場所で、私はいつもその音を待っていた。
未来の私や過去の私を待っていた。
そんな不思議な感覚を味わいたくて、その道を通るのが好きだった。

「解夏」という映画を観た。
主人公は徐々に視力を失っていく病気に侵され、東京での小学校教師の仕事を辞めて、故郷長崎に戻る。
大学助手の恋人も、彼の目となりたいと長崎に追う。

解夏とは仏教用語で、夏の苦行を終える時節のこと。
結夏に始まり、解夏に終わる。
美しい言葉だ。

主人公は目が見えなくなる恐怖に襲われ、自暴自棄になったり、恋人に当たったり、混乱し我を失いそうになる。
想像してみても、世界をこの目でとらえることができなくなる恐怖は、とてつもなく大きい。
けれど、彼の恐怖はいずれ癒える。

逆説的だけれど、「彼の目が遂に見えなくなったとき、彼は目が見えなくなるという恐怖から解放される」のだ。
彼の暑い夏が、解ける瞬間。

もしも私の目が見えなくなるのなら、彼と同じように私も故郷に戻ろう。
そして、目がなくても見えるものを見る。
もっと深い目で、見えないものを見る。

たぶん、あの陸橋の上で。

11歳にとってみれば、中学生はずっと先の未来だったし、中学生にしてみれば、11歳はずっと昔の思い出だった。
今の私にとってみれば、どちらも遠い故郷の出来事だ。

あの頃の彼女たちは、今の私を想像しただろうか。
もしかしたら、彼女たちは今の私にも会っていただろうか。

そこでお姉さんは何か言ったかもしれない。
でも蝉の音がうるさすぎて、それはかき消され、夏に消えた。


解夏(2003年・日)
監督:磯村一路
出演:大沢たかお、石田ゆり子、富司純子他

■2005/6/27投稿の記事
昔のブログの記事を少しずつお引越ししていきます。

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