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菊花抄-枯野抄-

わずかな刺激で崩れ落ちてしまいそうな白く細い花弁のかたまりを、両手のひらで注意深く包みながら、そろそろと列に連なって歩く。
二歩前をゆく、艶のない黒い背広。
頭と心の内側で、整理のつかない想いが現れては消えて、横切っては立ち昇る。
遥かな現実感が雲と混じり合う、淡い秋の空。

それは、ある人のお葬式のことだ。

仕事上の付き合いだったけれど、初めて会ってから1年近くになっていた。
関西弁でよくしゃべる、調子がよくて情に厚い、陽気なおじさんだった。
その調子の良さが、あるときは安堵になり、あるときは軽薄にも思えた。
普段意識もせずに接している間は、少々疎ましくさえ思うことがあったけれど、いざその人がこの世からいなくなってしまったと思うと、今さらに自分の態度を悔いてみたり、咎めてみたりする。
その人の良いところばかりが、記憶に浮かんでくるものだ。



記憶。

もう、記憶の中の人。
もはや現実の人ではない。
あまりにも突然、46才の若さで、その人は逝ってしまった。

この、ありふれていながら予期のできない出来事に、人は狼狽える。
準備などあるはずがない。
いつか必ず来るもので、それが誰のもとにでも、今日でも明日でもおかしくはないのに、それでも覚悟がない。あるはずがない。

押し殺す沈黙の中で、残された者たちの意識は、めいめいに当てのない答えを探して漂っている。
誰もその場で口に出したりはしないが、その想いは、普遍的なものから個人的なもの、形而上のものから形而下のもの、崇高なものから横しまなものにまで至るだろう。
故人との関係や距離感や、立場によっても様々なはずだ。

ただ、一つ言えることは、それがその人の死によってもたらされたものであるということだ。
その人の死が、そこに関わる全ての人、私も含めて、皆に問いを投げかけている。

この度、初めて喪服を買った。
祖父や祖母が死んだときには、制服や、実家にあった母の古いワンピースを着た。

考えて見れば、東京で誰かのお葬式に出るのは初めてのことだ。
一人暮らしの部屋に喪服の用意はない。
いざとでもならなければ、こういったものの必要性を感じるはずもなく、ずっと買わずにここまで来たのだ。

もちろん頻繁に用があるものでもないし、あってほしくもないものだけれど、とはいえ、こればかりは避けることができない。
それが必要になるのは、これから先も、いつだって予期のできないタイミングなのだから、なんとなくやり過ごすばかりではキリがないと考えて、これを機会にきちんとした服を買おうと思った。

下ろしたての黒い服の肌触りは、一人の大人として、社会や世間と関わり続けていく自覚の触感。
普段着る黒いスーツと何が違うのかというと、デザインや素材の違いもあるけれど、何よりも気持ちが違う。
買うとき、着るときの気持ちが違う。
これは喪服だと自覚して、そのためだけに用意して。
普段なら決して選ばないスカートの丈も、それがしきたりや礼儀であるならば、個人の趣味より優先しようという潔さみたいなもの、よく分からないけれど、なんとなくそんな風に思う。

誰かが死んで初めて、喪服を買おうと思い至るように、誰かが死んで初めて、私たちは死について考える。
近親者のそれであれば悲しみばかりが先行するだろうが、仕事で少し関わったというくらいの距離であれば、悲しみよりむしろ自分自身の生と死を振り返るような要素が強い。

上司は言った。
「俺の葬式でも、ほとんど面識もない会社の偉いサンが挨拶したりすんのかな」

弔辞は、故人が勤めていた部署の担当役員が、誰もが知っている大企業の社長名の代読というかたちで読まれた。
祭壇の周囲には、様々な企業名がぶらさがった花輪が並んでいた。
以前勤めていた会社で、同じ部署の新入社員のお祖父様が亡くなったとき、当時の部長が「でかい花を贈ってやろう。あいつも親戚にいい会社に勤めてるって思ってもらえるだろう」と言っているのを聞いたことがある。
様々な心遣いや思いやり、義理や形式、見栄やプライド。
何が正しいか正しくないか、どうあるべきかないべきか、誰も答えを出せないが、濃淡も色合いも雑多な想いがただ交錯する。

その交錯の前で、大黒柱を失った妻と息子と娘の憔悴した姿がある。
うつむいて生気が抜けて、時にすすり泣き、時に堪えきれない嗚咽が漏れる。
そして、その声は参列者の胸を圧迫するように詰まる。

芥川龍之介の著作「枯野抄」では、松尾芭蕉が旅の途中で倒れ、その臨終を取り囲む弟子たちそれぞれの想いが描かれている。
師匠の死によって、自分の生活がどうなってしまうかと不安になる者もいれば、師匠の次に死ぬのは自分ではないかと怯える者もいる。
懸命に看病をした自分に満足をおぼえる者、大げさに泣いてみて悲しみを演出する者。
そして、やがて、その場にいる全員に安らかな気持ちが湧き起こってくる。

この、可憐な菊の花。
あまりに繊細で、もろく崩れそうな白い花。
私の手の中にあって、細心の注意で、それを守っている。
大切に棺まで運んで、遺体とともに荼毘に伏すために。

生の後に死があるのではなく、死の前に生があるのだと、最近はそう考える。

この世に生まれてきたことはこんなに素晴らしくて嬉しいことなのに、必ず私たちは死んでしまう。
忌み嫌う死こそ、ただ一つ、私たちを平等にするものだ。

あれからどこかぼんやりしていて、少し人恋しい。
あの人の死は、きっかけにすぎない。

所詮意味などどこにもなく、ただ事実として、今生きていていずれ死ぬ。
またどうせ程もなく、自分が死ぬことなど忘れてしまうのだが、それでも事実は変わらない。

決して、変わらない。


  旅に病むで夢は枯野をかけめぐる    松尾芭蕉 辞世の句


枯野抄(1918年・日)
著:芥川龍之介


■2007/10/12投稿の記事
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