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(前編)カバと、ちいさな家族【旅のエッセイ/ザンビア/シヤボンガ】

文芸やまなみ|山並みのあいまから。 恵那市笠置町に暮らす佐藤亜弥美のエッセイ・紀行文を不定期にアップしていきます。 日々の暮らしのこと、里山のこと、アフリカ旅のことなど。

今日の物語は、2010年にザンビアで出会った家族のお話です。

カバの影 


夜に溶けてしまいそうな大きく暗い湖を、満月が照らし出す。湖のへりの草原に、のっそりと、どっしりと歩く巨体がある。夜風は湿っている。一歩その巨体が踏み出すごとに、土がみしみしと音を立てる。巨体の持ち主の顔は暗く、よく見えない。この巨体がこどもなのか大人なのか、まったく検討が付かないが、人間の何倍もあることには間違いない。月夜を破るようにばりっ、ばりっ、と音が響く。…カバが草を噛み、引きちぎる音だ。月光がカバの硬い輪郭を照らし出す。カバが動くたびに月に照らされた、ぬらぬらに汗ばんだ皮膚が光る。しっぽを鞭打ちながら、まとわりつく虫を払っている。カバの息遣いが聴こえる。
 
カリバ湖にはカバが(そしてワニも)うじゃうじゃいる。カバという生物は意外に獰猛である。カバは神経質で臆病、警戒心が強い。その牙は太くて長い。それゆえになわばりを侵される危険を察知するととたんに食らいつく。動物園の獣医のもっとも過酷な仕事のひとつは伸びたカバの牙を削ることだと、小学生のとき絵本で読んだ。カバはただでは口を開けないだろうから、そこに獣医とカバの想像だにしない一触即発の競り合いがあるのだろう。ひとたびカバの琴線に触れるようなことをするとまったなしにガブリとされる。わたしはそんなカバの生態をテレビでみて知っていたから、ザンビアを旅したときにお世話になったはるえさんの話を聞いたときには驚いた。
「庭にカバが出るおうちなのよ」

はるえさんはザンビアの首都ルサカにながらく暮らされている。途上国での専業主婦業というのはなかなか暇なものであるらしい。はるえさんは初老の女性で、昔は非営利団体に勤めていたが、夫が外交官として在ザンビア日本大使館に勤務してからは引退されていた。ザンビアにも駐在妻たちは少なからずいて、コミュニティを作っていた。なにせ娯楽という娯楽はないし、主婦業自体は現地のメイドを雇うから時間だけが余るのだ。さすがに白人向けのカルチャーセンターなどはあるので彼女たちはそこで乗馬をしたり絵を描いたりして過ごす。まだ有り余る時間は、これまた有り余っている自然を見にサファリに行ったり、湖をクルーズしたりする。そんな一見優雅な、しかし日本の主婦とはまた違った生活をするひとたち。豆腐はチャイナタウンの中国人が作っているから、たまに買うのよ…と話す駐在妻のお茶会にお邪魔しているとき、カリバ湖に住む日本人家族の話が出た。

「ほんとうに、庭にカバが出るの。わたしたちも行ったときに見たのよ。運がよければきっとカバに会えるわ。宿を予約してあげましょう、といっても電話線の調子が良いといいんだけれど…」

カリバ湖はザンビアとジンバブエの国境にあるダム湖で、1960年代に水力発電のために中国が建設した。もともとはサバンナにザンベジ川が流れていた中流をせき止め、湖にした。そのカリバ湖の岸辺に日本人の妻とイギリス人の夫が営んでいる宿があるという。元気な育ち盛りの男の子が3人いると。とっても静かでいいところで、ジンバブエ側からはクルージングができるということだった。カリバ湖にはカバが住んでいて、クルージングしながら見られるかもしれないというのだ。あるいは、運がよければその宿でカバが見られる。そこへ行くにはミニバスという、現地人が活用するトヨタのハイエースをむりやり改造して10人以上乗れるようにした乗り合いタクシーに乗る必要があった。

ルサカはバブルに沸いていた。ショッピングセンターが次々に建ち、ほこりだらけの街は箱だけがぴかぴかしていた。インド人や中国人もしだいに流入してきて、人々は、ぎらぎらしている。女たちは金の匂いのする男に群がり、男は女を騙そうとしていた。泥棒ははびこり、信号機は壊れている。増え続ける人口に電気供給は足りず停電を繰り返す夜。それでも鳴り続けるけたたましい音楽、おまけに季節は雨季。ルサカはちょっと疲れた。湖とカバと、ちいさな家族に、無性に会ってみたくなった。

ちいさな家族

ルサカから南に下ってミニバスで3時間ほどでカリバ湖のほとりの町、シヤボンガに着いた。そこで宿の方に電話するはずが、電波が無く電話が繋がらなかった。仕方がないのでそこらじゅうに錆びが出ているおんぼろタクシーの中で暇そうに寝ている男に、「ショーンというイギリス人を知っている?」と聞いた。これは夫のほうの名だった。小さい町なので運転手はショーンを知っており、乗せて行ってくれることとなった。

走り始めて数分ほどでコンクリート道は消え、赤茶けた土の道となった。おんぼろタクシーは乾いた音できしきし鳴いた。いくつか集落を越えるといよいよ森も鬱蒼としてきて道はおよそ普通自動車では通れない石だらけの道になったので、わたしは運転手に疑いをかけた。
「本当にこの道?この車で平気?」
念を押して尋ねた。
「パンクしても、ちゃんとショーンの家までは送って行くから大丈夫だよ」
どうやら道は合っているらしかった。気楽な答えだ。
 車はやがて坂道を下り始めた。おんぼろタクシーがしゃっくりをするように揺れる。そのたびに運転手もわたしも、おしりが少し浮く。さきほどのシヤボンガの中心地からも湖はちらと見えたのだが、いまこの車の向かう先というのはまた違う岸辺であるらしい。
 坂道を降り切ったところにやや大仰なレンガの門と、それにはさまれるようにバリケードがあった。バリケードから見越して庭を眺めると、二棟の石造りの少し小ぶりの家の間に広い庭があり、さらに周りには繁りきったほとんど森と言える林があった。突然現れた隠れ家のようだ。タクシーがクラクションを鳴らすと、奥から現地人の女性が出てきた。ピンクのシャツに、下はザンビア人女性が皆身につけている色とりどりの長い腰布であった。その女性がバリケードを脇によけてくれ、タクシーは敷地内に入った。
 タクシーの運転手に礼を言い、
「いくら?」
と聞いた。すると彼は恥ずかしがりながら答えた。
「きみがきめて。(You can manage.)」
これほど困る返答もないだろう。彼は期待して言っているのか、遠慮したのか。おそらく車には10分は乗っていなかったと思う。距離ではザンビアの相場だと五ドル程度だと判断したが、あまりの悪路をおんぼろで突っ切った技術と、来る時はタイヤはなんとか持ちこたえたが、この帰りにパンクするかもしれないという保険とを考慮して10ドル分出した。
 するとその運転手は眼を丸くし、ともすればこんなに要らないよと言いだしそうな雰囲気で札を握りしめた。そして深々とわたしへお辞儀をした。アフリカのタクシー屋はぼったくるものだと考えていたわたしは、その姿に打ちのめされた。
 
 先ほどの色とりどりの腰布を巻いた女性はこの宿のお手伝いさんで、降りてきたわたしを二棟のうち背の高いほうに案内した。背の高いほうの棟は、まるでちょっとした城のようなつくりをしていた。中心には塔のようなものもあった。
 玄関へ入ると吹き抜けになっていて、二階の踊り場から声がし、顔がのぞいた。眼鏡の日本人女性だった。それがこの宿の主の菊田久美子さんである。まるで少年のように肌を黒くして、裸足で暮らしている。黒々とした髪を後ろで束ねていた。
 彼女と挨拶を交わしたと同時に、爆発のように、久美子さんの息子たち三兄弟が躍り出てきた。とにかくお喋りでやたらはしゃぎまわるやんちゃ盛りの男の子だ。八歳の長男が啓治、五歳の次男が海斗、三歳の三男が翔である。彼らは久美子さんの意向で家で日本語の教科書を使って勉強しているため、日本語環境にないにもかかわらず喋りは達者であった。主人のショーンも昼寝から目覚めてきたが、彼の日本語の語彙は挨拶程度だった。久美子さんは自ら先生となり収拾のつかないやんちゃ坊主たちを教育していた。
 わたしはルサカからシヤボンガにくるまでのミニバスで、休憩に立ち寄った場所でバナナを買っていた。休憩していると物売りが車の窓ガラス越しにアピールしてくるのだ。わたしはバナナをひと房かった。人差し指くらいの短いバナナがたくさん連なったもので、日本で食べるバナナとは違う味がした。

 子どもたちに土産もないのでそのバナナの房をいるか聞くと、三人がわっと群がってきて、喜んで小躍りしながら食べた。
「ああ、美味しい。りんごみたいな味のバナナ、不思議、美味しい」
と三男の翔が目を細めた。この辺境の地では、買い物へ行くのも一苦労だからバナナはいつも食べられるものではないのかもしれない。
 さきほどのタクシーの運転手の話をすると、久美子さんは「そうね、ルサカと違ってこのあたりの人はビジネスに対してのんびりしているというか…ザンビア人はもともと可愛いところあるからね」と微笑んだ。
 客人の寝床はもう一棟のほうで、中はかなり広々として一0人以上収容できそうなこぎれいな部屋だった。ここに首都ルサカからストリートチルドレンを呼び寄せて林間学校のようなこともするのだという。

 この宿は久美子さんの夫のショーンが自分で設計しコツコツと建てたものらしい。もともと建築の仕事をしていたそうで、DIYで造ったとは信じがたいほどに精巧にできている、石造りの巨大な城である。 

ショーンは50代のアイルランド系イギリス人で白髪まじりの思慮深い表情の男性だ。宿や庭の設計など建築周りのことをやりながら、NGOのコーディネーターやストリートチルドレンの合宿のときのインストラクターなども兼任していた。
 客はわたしだけであったので、食事はご家族のリビングにお邪魔する形となった。実はルサカを発つ前にはるえさんのご友人がたに忠告を受けていた。それは久美子さんのお手伝いをすること、というのであった。ショーンは保守的なイギリス人で家事はしないし、一切の宿業務は久美子さんが一人で取り仕切っている。しかもこの宿は非営利団体に登録されているため、高い宿泊料は取れないから、せめて皿洗いはしなさい、と。

 久美子さんは本当に気持ちのいい人だった。親切でさっぱりしてまめである。アフリカに生きるにはこれくらい芯が強くないといけないだろう、と思わせながら、さわやかさも持ち合わせていた。
 
「お客さんが来ると、ご飯が豪華になるから嬉しいんですよ」
と食事のとき、長男の啓治が子どもらしい正直さで言った。そしてわたしに礼を言った。
「この子ったら、以前にお客さんがいらしたときに『ぼくの家にお金をもってきてくれてありがとう』なんて、面と向かってお礼を言ったのよ。もう恥ずかしかったわ」
と久美子さんは笑った。
「実際、お客さんが来ないと稼げないから、ほんとうのことなんだけれどね」
子どもたちはショーンの母国の料理、ローストチキンを文字通りむさぼるように食べた。その様子を見ていたら自然にわたしは自分の分を譲りたくなったくらいだ。
子どもたちは皿にチキンを取り分けてもらい、それを平らげると次は
「スタッフィングください」
と皆皿を両手で持って突き出し、口々に久美子さんにお願いするのだった。
 スタッフィングとはローストチキンの内部に詰め込んである材料のことで、パンやにんにく、マッシュルームなどを細かく刻んで混ぜ、丸鶏の腹に詰め込む。ショーンの故郷の味なのか、パンや人参のほかにオレンジのような柑橘系の味のする、味わい深いスタッフィングだった。子どもたちは、この複雑な味のスタッフィングを美味しそうに食べた。

 皿を洗うのを手伝いながら、湖と森に囲まれた生活を思った。久美子さんは複雑な日本語の会話をすることはめったにないらしかった。なにしろ周りに日本人どころか文明を味わったことのある人がほとんどいない状態で十年暮らしているのである。唯一日本語をしゃべる息子たちの生活はほぼアフリカ人のようである。男児三人はそれぞれにひょうきんさや、思慮深さ、慈愛や嫉妬や執念深さ、高慢や愛想の良さ、面倒見のよさを、各々のバランスで持ち合わせていて、みんな健康的に笑っていた。家のなかはいつも子どもたちの叫び声と笑い声と、たまに父母の怒号。

ルサカの記憶


 夜も深まると、ショーンが、わたしを「塔」に誘ってくれた。この宿は、ショーンがどんどん上に上に、増築をしていき最後には高い塔ができた。塔の上は三メートル四方くらいの塀にかこまれた空間があり、物見やぐらのようになっていた。
「今日は星が見れそうだから」
子どもたちもひさびさに塔に登れる、と喜んで付いてきた。塔は少し特別な場所のようだ。
急な階段を登り、塔の先っぽに立つと、下には森が暗く広がり、上には夜空しかない。
 星は降っていた。風があり、森は揺れた。子どもたちの声が響いた。
少し横になろう、とショーンが言って、みんな床に寝ころんだ。いよいよ空に浮かんでいるようだ。
「あっ、流れ星」
と啓治が言うと、残りの二人の弟は「見えた」と言う。
「お前たち、見えていないだろう。嘘をいうな」
と憤る。見えたよ、ほんとうに見えた。と翔がべそをかいている。
実際、星はいくらでも流れていた。あちこちで滑り落ちていく光。
「ああ、月が明るくてちょっと見えづらい」
ショーンはわたしに満天の星を見せてやりたかったらしく、少し残念そうにしている。
 遠くの暗がりに目をやると、湖はくらがりに沈んでいて何も見えない。空気は湿気を含んでおり、湖が近くにあることを知らせている。湖に住んでいるはずの何百、何千のカバの息遣いが、どこかから聴こえてくるようだ。
 
 塔から降りると子どもたちが床に就いた。「久しぶりに大人向けの日本語がしゃべれるわ」と久美子さんは喜んで、わたしたちは好きな本の話や学生時代のことなど、まるで少女のように語りあった。
 
 青年海外協力隊で臨床検査技師として首都ルサカの職業訓練校に派遣されていた久美子さんと、マイクロクレジット(村人向けの少額投資)のプロジェクトで同じくボランティア活動をしていたショーンは、共通の知人を通して知り合った。当時ショーンはカルルシという銅が採れるコッパ―ベルト州の村にいたが、このコッパ―ベルトは銅を運ぶためにいろいろな地域からトラックが入ってくる。ゆえに、長距離トラック運転手向けの売春宿ができた。結果、この売春宿の周りには誰が父だかわからないような子どもが溢れかえるようになった。そしてストリートチルドレンがだんだんと増え始め、そして問題になるようになったのだ。

 それで最初のプロジェクトとは違うけれども、ショーンはストリートチルドレンの世話をするようになった。ルサカはルサカで、ストリートチルドレンが増え始めたので、そちらでも子どもを保護し自立させるプロジェクトをショーンは遂行しはじめた。
「当時のストリートチルドレンの環境って劣悪で、周りの大人たちは子どもたちがゴミを漁ったりするとそれを嫌がり、袋小路に連れて行って殴ったり蹴ったりしていたわ。同じ人間と思っていないようなところがザンビア人にもあって。
 さらにひどいのは、ストリートチルドレンの売春。コカ・コーラの瓶一本のために身体を売る年端のいかない女の子がいて…一晩に何人も相手するのよ。それで、下半身が汚れるから、おしっこをして洗い流す、って…それを聞いた時はなんて言ったらいいのかわからなかった…。」
久美子さんは回想する。
 痛みや寒さ、悲しさを紛らすのにストリートチルドレンはまた、ガソリンやシンナーを吸った。脳みそがただれたようになっても、生活のきつさよりましなのだった。

 ショーンはそんなストリートチルドレンたちに声をかけ続け、ストリートチルドレンたちに一目置かれるような存在になった。ストリートチルドレンたちに手に職をつけさせたり、学ばせたりした。その中で、「君たちはいつか自立しなければいけない」ということをショーンは伝えていた。支援の手は、トレンドがある。支援をすることが流行りになる時代もあるけれど、廃る時代も来る。支援したいと勝手に言うわりに、効果がすぐに出ないと飽きて去っていく、ということもしばしばだ。そんな支援を頼りにするのでなく、君たちは自分たちで自分の人生を良くしていかなければいけないよ、と。
 
 久美子さんとショーンはボランティア活動の任期が終わった後、自分たちで提携先を探して、ストリートチルドレンたちの支援活動をしていたが、予算案ばかり見て子どもたちのことを優先的に考えないで遠隔でやいのやいの言ってくる本部と、折り合いが合わなかった。
「そんななかで、カリバ湖のある静かなシヤボンガで宿をやりながら、ストリートチルドレンのプロジェクトができないかと思い始めて、ここに土地を買ったのよ」
生まれたばかりの長男を抱えて、インフラの無いキャンプ地のようなところから、コツコツと宿を作ってきた。水道も排水も何も無かったという。
 
 
 わたしは家族の居間にお邪魔していたが話しているうちに真夜中になってきたので「じゃあわたしはおいとましますね」と言うと、
「送って行くわ」
と久美子さんは懐中電灯を準備し始めた。さすがに月明りがあるから二0メートルくらいはひとりで歩けるだろうと思ったので、大丈夫です、ひとりで行けますから…そう伝えると、
「違うのよ。本当に恐ろしいのがカバなのよ。うちの庭にはカバさんがたまにやってきて、草を食べてるの。彼らは驚くと凶暴になるのよ。最近でもこの辺で、酔ってカバに触って、おしりを食べられた人がいるんだから」

この家族の住まいのすぐ脇には広い湖がそこまで迫っていた。やはりカバが上陸してもおかしくないのである。
「前もこんなふうにお客さんをお送りしてね、帰るときに行く手を阻む大きな黒い塊が庭の真ん中にあったの。それは成熟したオスのカバだったのよ。高さだけで2メートルくらいあるんだから、刺激しないようにそっと歩いたのね」

 それは笑えない話だった。おしりを丸かじりされて、多量出血で死ぬのは防げない話だ。先のおしりをやられた村人は命は取り留めたらしいが、それは幸運だったろう。
 外に出ると久美子さんは大きな懐中電灯を庭中すみずみに照らして、
「カバさんはいないわね」
と言った。カバは広い庭にはおらず、木々が風に吹かれているのが黒く揺れているだけだった。嘘のような会話であった。

(後編へ続く)


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