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『凍りのくじら』とドラえもん

先日、久々に映画館でドラえもんを観ました。あれはね、危険。周知の事実だと思うけれど、クレしんだのドラえもんだのって、映画になった途端ものすごい気合で泣かせにかかって来るじゃないですか。ジャイアンもスネ夫もいつもは嫌なやつなのに突然頼りがいのあるナイスガイになるわ、のび太が急に根性出すわ、しずかちゃん絶対に人を見捨てないわ。。。

涙もろいお年頃になった上に、いつの間にか連れてってもらう側からあげる側になったか〜私も大きくなったなあ(?)という感慨も伴いながら観に行くのはさらに超危険って、わかってたけど、仕方なく行くよね。そして、泣くよね。あの展開はズルイよ。。。泣いちゃうよ。。。泣いたよ。。。

そんな記憶も新しい頃、noteでレビューを読んで気になったのがこの本。ドラえもんにまつわる小説らしい。しかも、書いたのは今をときめく辻村深月さんですと。何となく、どちらかというと世相を辛辣に表現するイメージの著作のある方が、あのドラえもんを題材にするところが想像できなくて、読んでみることに。

しかしnoteのレビューが素晴らしかった。過不足なく印象を言語化されていて、実際に小説を読んでみてからも改めてレビューを読んだら実に共感して、あら私書くこと無くなっちゃったわ。

ということで、今回の記事おしまい。
…でも良いぐらいなんだけど笑、補足というか、思ったことをポツポツと綴ってみます。

『凍りのくじら』- 著者:辻村深月さん

私にとって辻村深月さんの作品は、『傲慢と善良』に次ぐ2冊目でした。『傲慢と善良』はあらすじも全く知らないまま、ほどよく分厚い文庫だったからというだけの理由で手に取った感じです(この理由多いな、私)。

今回読んだ『凍りのくじら』にも、多面性のある女性が丁寧に描かれていました。どちらも、悪く言えば計算高いところのインパクトが強くて、万人受けするような共感ではたぶん無いんだけれど、了解はできる。「あとがき」にもあったけれど、この人この後どうなっちゃうんだろう、と思わせる描き方がとても得意な作家さんなのかな、と思いました。

この小説で私が特徴的に感じたのが、言葉のチョイス。何と『凍りのくじら』にも、「傲慢」という言葉が出てきました。読み進めていると、あれ、また出てきた。1冊の小説の中でこのワードが複数回出て来るって、けっこう珍しいんじゃない?と、思わず数えながら読んでみたら。ラストまでに5回(!)も出てきたんです。

私はてっきり、『凍りのくじら』の方が最新作かと勝手に勘違いしていたので、発行年を確認してみたら、『傲慢と善良』の発表より14年も前に発売されていたんですね。ということは、少なくともこの頃から、辻村さんにとって人間の「傲慢さ」というのは、人物を評価し判断するにあたって重要なポイントだったのかも知れないなあ。なんて思ってみたり。

『凍りのくじら』には、それよりもさらに、「刹那せつな」とか「刹那的」という言葉も多用されていました(数えなかったけど)。

年齢的身体的な若さという点ではエネルギーに満ち満ちた存在のはずなのに、心は不安定だったり危なっかしかったり…という、思春期(って十把一絡げにするのも本当はあんまり好きじゃないんだけど)を振り返ってみれば、この言葉の意味するところに一時は親和性を感じたことがある人は、少なくないことでしょう。

辻村さんは、人物の性格や行動の刹那的な要素にも焦点を当てていく傾向があるのかな。それとも「刹那」ってなんかカッコいいから実は好きなのかな。なんて。(違ったらごめんなさい)

ちなみに「刹那的」でイメージする作品群や存在って、何でしょうね。私だったら、パッと思い浮かぶのは、Coccoさんとか、椎名林檎さんとか?最近で言うと、Adoさんあたりでしょうか。歌詞は壮絶だけどメロディーラインが心地よいギャップに、カラオケで歌ったら絶対すっきりするだろう系も多いっていう共通点も、ありますね…笑。

刹那的な友人たちを見下しながら、実は自身こそが誰とも心から繋がれないと感じ刹那的な生き方をしていた主人公にとって、心の糧はそのワードとは程遠いドラえもんでした。物心ついた時から空気みたいにずっとあって、一緒に成長して当たり前の存在。

ひみつ道具に、ドラえもんその人(ネコ?)に、シンプルにワクワクしていたあの感じも、10代の頃の浮遊感や危なっかしさみたいなものも、もどかしく追体験しながら読める作品でした。

ところで、表紙のくじらの後ろにある三日月は、もう私にはパラダピアにしか見えない…!!
パラダピアってなあに?って人はこちらをどうぞ。

『映画ドラえもん のび太と空の理想郷』公式サイト


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