美しさを見出したい。
大学に一人の女性がいた。
私がこの人のことを「友達」と書けないのは、少しだけ「そういうこと」だったからだ。
授業が同じだったことが多かったけど、あまりキャンパスには来ない人だった。いつも授業前にLINEがきて、「出席出しといてー」言われるのが日課だった。彼女の名前と学籍番号は、大学四回生にもなると、何も見なくても書くことができた。
話す機会は週に一度。話すことと言えば一方的なお願いばかり。それでも私が何も言わなかったのは、口から滑り落ちてしまいそうな感情よりも、単純に分かり合っていると思っていたからだった。
◆◆◆◆◆
卒業して一年が経った時、Instagramを通じて連絡がきた。別にもう好きであったわけではないし、未練なんて言葉を使うことの方が烏滸がましいくらいの感情しか持ち合わせていなかった。要は、忘れていた。文字通り、「少しだけそういうこと」だったから。
私が更新したストーリーを見て、連絡してくれたのだという。大学は上辺の付き合いだった。その中であなたは心を開いていた。と、いうのだった。
炭酸をコップに少しずつ注いでいく感覚。ふつふつと何かが浮かんでは弾けた。
結局ご飯にいくことになって、私は京都に向かった。あれだけ乗った京都の地下鉄だったが、一年乗っていないだけで降りる駅が分からなくなっていた。東西線や、阪急はどこで降りても河原町にいくことができるのだが、私がいきたいところは阪急で降りることが近道だった。
駅を降りて近くにマクドナルドに着く前から、正確には私が京都に向かう2日前から、彼女からの連絡はなくなっていた。
2時間待って来なかったら帰る。結局彼女は来なかった。
ふつふつと何かが浮かんでは消える。
好きだったことより。予定をとばされたことより。
こんなものか、と思っていた。
◆◆◆◆◆
私は、京都か県外の地元のどちらで先生をするか迷った挙句、地元で先生をすることに決めた。それは大学の友人たちとは疎遠になることを示していた。
人は時折、所属で人を判断する。
住んでいる地域。高校と大学。学科。友人と恋人
そのどちらが大切かを迫られて、結局不利な2択、もしくは2択に見せかけた1択をしなければならない。
どちらが大切か。答えは一つ。比べられるものではないのだ。
野球とサッカーは同時には競えないのだ。
地元の友達とは高校を共にした思い出があるし、大学の友達とは「いい教師」を目指して研鑽しあった。私にとってはどちらもかけがえのないものではあるし、どちらも価値があったものであると信じたい。
大学を卒業してからの1年間、ろくに大学の友人とは連絡を取らなかった。取れなかった。気軽に会える距離ではなく、社会人になった今、時間を合わせることが難しかった。
そんな中、連絡をくれた「少しだけそういう人」だった人は、私が大学で出会うことができたかけがえのない人だったのだ。
こんなもんか。
数百万と引き換えに得たものは、教員免許のみ。こんなものなんか、と思わずにはいられない。
人生の夏休みと言われる時間に、どうにか人の繋がりの美しさを見出したい。それだけなのだ。