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【熟成レビュー】ルーブル美術館展 肖像芸術 人は人をどう表現してきたか(2018年)

note開始以前に書き溜めていた展覧会の感想を投稿する試み。
今回は、2018年に国立新美術館で開催された「ルーブル美術館展」です。
本展覧会の軸であった「肖像芸術」は、現代の「自撮り」やinstagram文化に繋がるものかもしれません。

日付:2018年8月22日
場所:国立新美術館(東京都 六本木)

やや強い追い風に迫りくる台風の雰囲気を感じながら、東京都は六本木の国立新美術館へ。

平日だから空いているだろうと甘く考えていたが、館内は夏休み絶賛満喫中の学生達で埋め尽くされていた。
彼らのように、学生時代に時間の許す限り芸術作品に触れることは素晴らしいことだと思う。
私もそうしていればよかった、と少し後悔した。

入場待ち時間の間に斯様なことを思いつつ特別展エリアへ。
今回は、肖像芸術に焦点を当てたルーブル美術館特別展である。

まずエントランスに掲げられていたのはルーブル美術館館長からのメッセージであった。
今月頭に上野の藤田嗣治展へ行った際にも感じたことだが、日本とフランスの交流は私が勝手にイメージしていたよりも長く深いものであるらしい。
ヨーロッパの一国と極東の島国が、美的な感性を根底で共有していることに芸術の普遍性を感じることができる。

この企画展では、各時代の人間社会における肖像の存在意義を意識してエリアが分類されていた。

どうやら人の顔を象る行為は死者へ思いを馳せるところから始まったようだ。
本展覧会の最初に展示されていたアメンホテプ3世の棺のマスクや、墓石に掘られた埋葬者の顔などに、今日の「遺影」という存在との精神的な繋がりを感じた。
同じエジプトでも、古代では綺麗に理想化されていた死者の肖像が、1-2世紀頃になると写実性を持った現実的なものに変化した様も面白い。

続くエリアに展示されていたのは、「権力誇示のための肖像」である。
時代時代の権力者は自身の肉体を絵画や彫刻としてコピーし、広く世に頒布したそうだ。
例えば現在の紙幣にも歴史に名を遺した偉人が描かれているが、これもその精神性の一端かもしれない(権力誇示というと言い過ぎ感があるが)。

このエリアで最も脳裏に焼き付いた彫刻作品は、リシュリュー公爵ルイ・フランソワ・アルマン・デュ・プレシの彫刻である(スキアッフィーノ作)。

リシュリュー公爵ルイ・フランソワ・アルマン・デュ・プレシ
スキアッフィーノ作,
1748年

軽やかであるが威厳を感じさせるマント。
何事にも怯えぬような毅然とした表情。
真っすぐと伸ばされた右腕と腰に当てられた左手からは、権力者の余裕が窺える。
360度どこから見ても欠けることの無い威風堂々としたその立ち姿には、もはやひれ伏すしかないように思う。
この彫刻が制作されてから270年以上経った今の私でさえ立ち竦むのであるから、当時の民衆への権力誇示としてはとても有効であったのだろう。

ジャン・グロの「アルコレ橋のボナパルト」に始まり「デスマスク」で終わるナポレオンの肖像作品群も印象的であった。
ナポレオン死後の顔を象ったデスマスクであるが、複製して販売されていたらしい。

絵画では、ドミニク・アングル作「フランス王太子、オルレアン公フェルディナン=フィリップ・ド・ブルボン=オルレアンの肖像」が特に記憶に残った。

フランス王太子、オルレアン公フェルディナン=フィリップ・ド・ブルボン=オルレアンの肖像, ドミニク・アングル作, 1842年

アングルの作品を直接拝むのは初めてであったが、作品の中の人物と私の目が確実に合っているとしか思えないほど写実的である。
優しさがにじみ出ている柔和な表情の細身の軍人に、心を許してしまいそうだ。
新古典主義の「業」を目に焼き付けることができた。

「目が合う」ほど写実的で印象に残った作品がドミニク・アングルの上記肖像なのであれば、
「目を合わせられない」からこそ魅力的であると感じられる作品が、ヴェロネーゼ作「美しきナーニ」である。

女性の肖像、通称《美しきナーニ》
ヴェロネーセ作, 1560年頃

本企画展の目玉とも言える「美しきナーニ」の前には、他作品よりも多くの観客が足を留めていた。
鮮やかな紺色のドレスを身にまとった女性が、静謐な表情で視線をやや斜め下に向けて佇んでいる。
真っ黒な背景がその神秘性を高めているように感じられた。
決して捕捉出来ない彼女の視線が、逆に私をこの絵に釘付けにさせたのだと思う。
この絵画の前で立ち止まる観客が多いのも納得であった。

古代から19世紀末付近までの肖像芸術について、タイムトラベルさながら追うことが出来たが、やはり人の顔を捉えようとする精神性の根幹は21世紀の今でも変わっていないと思う。
今世紀になってから「セルフィー」という新たな言葉も登場したし、instagramやfacebookでは毎秒のように自他を問わない「肖像」が湧き出ている。
「肖像芸術」が変化に変化を重ねた結果SNS上での表現になったということであって、それは古代から続く肖像表現活動の延長線上に位置していると感じた。

今回の熟成レビューは以上です。
では。

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