かいる氏作『ノート』の感想と私がなんか考えたこと─「母親」という存在にかかる抑圧

 現在、カクヨムにて「キャラクターが精神的に追い込まれる短編集まれ!」という企画を主催している。

 これはその参加作品の一つ、「かいる」氏の短編小説『ノート』を読んだ感想なのだが、Twitterでやるには長くなりすぎたのでこちらで書くことにする。

 まずは全体としての簡単な感想、本企画の趣旨である「精神追い込まれ描写」についての感想から。

 これは面白かった。発想はもちろん、段階を踏んで精神が追い込まれていく描写が大変性癖であり、フフフと思いながら読んだ。ただ、オチが誰のことなのかが一読しただけではわからず、そこだけモヤモヤしたのがあれだった。

 さて、本題である「私がなんか考えたこと」に移ろう。

 本作品のメイン取り扱い物は、ドラえもんの秘密道具的存在である「書き込むと対象の嫌いなところを直せるノート」である。

 作中の描写を見るに、ノートの効果は対象の嫌いなところを作り出している性質・性格を「変える」ことではなく、表に出ている嫌いな行動を「抑え込む」ことである。つまり抑圧。

 主人公の「お母さん」、おそらく虐待をしているであろうお母さんは、主人公によるノートへの書き込みによって行動がどんどん抑圧されていき、ついには限界を迎え、主人公に手をかけそうになり、最後主人公にノートを用いて殺される。

 これを勧善懲悪ととるかは人によると思う。作品についたコメントではこのお母さんを悪い奴、救いようがない奴と責める意見が多いが、私はどうしてもこのお母さんを一方的に悪と断罪しきることができなかった。

 こういった感覚は倫理的社会的に間違っているかもしれないが、この「お母さん」にもこうなった背景は必ずあるはずだからだ。

 現代社会において、「母親」という役割を負う人間はとにかく追い詰められやすい立場にある。
 単純に育児という業務の大変さはもちろん、
よい母であれ、子供を常に愛していろ、いつも笑顔であれ、しつけをきちんとしろ、弱音を吐くな、怒るな、叱るな、アドバイスを聞いたら素直に受け入れ反省しろ、夫や子供のせいにするのではなく全て自分のせいにしろ、家事をサボるな、社会に迷惑をかけるな、エトセトラエトセトラ……そういった抑圧が四方八方からかけられており、心休まる暇がない。

 本作品に登場する「お母さん」も例外ではなくそういった抑圧をかけられてきた存在であり、そういった抑圧に耐えきれなかったがために作中のような行動を起こしてしまったのだと思う。

 当然、子供からすると理不尽な話である。だが、そういった母親というものがそんな状態に陥る前、精神的に追い詰められきる寸前の状態、子育てがつらい、とか、子供をかわいく思えない、とかそういった状態で踏みとどまっているときにそれを誰かに相談したり打ち明けたりしたとしても、解決することは少ない。

 基本責められるか、最悪「そんな悩みを抱くこと自体が間違い」とされてもっと追い詰められてしまうことが多いと推測されるからだ。

 母親は抑圧を愛によって我慢するものであるとされている。もっと言うならば、抑圧を抑圧だと認識することさえ許されない場合もある。とにかく母親は責められやすい。同じことをやって母親と父親どちらに批判が集まりやすいかというと、当然母親である。

 そういった社会的状況、背景がある上で、この作品を読んで単純に「わるい母親は死んだ! スッキリ!」と感じることは私にはできなかったし、そういう感想を発信してしまうこと自体が現実の今母親をやっている存在への抑圧足りうる可能性まである。というか、確実にある。

 何が言いたかったか曖昧になってしまったが、こういった作品というか何というか、いわゆる「わるい母親」、または、そこまで行かずとも、「悩みを抱えている母親」という存在に対して、一方的に「悪い!」と責めたり悩みを認めず上から押さえつけたりする風潮というものは、なんというか……それもある種の逃避というか、母親という存在に対する「聖母幻想」が否定されそうになった拒否反応という側面が強く、事態を更に悪化させることにしか繋がらないのではないかと思ったのだ、私は。

 しかしながら、そこまで考えさせてくれるこの作品『ノート』は確かにすごい作品であるし、問題を提起するというパワーがあった。そういった点で、本作は希求する力がおおいにある作品と言えるであろう。この作者さんはすごい。確実に才能がある。これからも頑張ってください。

 最後に、これは母親というものに特に詳しいわけではなくまたその役割を負ったこともない人間による勝手な感想でしかないということを記しておく。

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