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「L」と雨降る日々のこと 上

※お詫びとお知らせ:本作には一部の方に不快感を与えるような表現が含まれておりました。お詫び申し上げます。反省を踏まえて、加筆・修正を行った作品を改めて投稿いたします。3回連載の予定です。(8月11日記す)

~まえがき~

 出会ったその日に、彼女は自分のセクシュアリティを告白した。
 ボクの好みのタイプではない彼女。
 彼女にとって、そもそも恋愛の対象にはならないボク。
 それなのに、いや、それだからこそ、かもしれない。
 ボクたちは同じ時間を過ごした。
 人生の中では、通り雨のようなほんの短い間のこと。
 時計の針を元に戻すことはできない。けれど、
 雨に彩られたそれらの日々の、
 淡い記憶の1ページが、心の奥底からふと蘇る。


「L」と雨降る日々のこと 上


「わたしの名前の『エル』はね、LGBTの『L』だよ」
 初めて出会った日の夜、彼女はそう言った。
「そう」
「...それだけ?」
「ボクはてっきり、低気圧の『L』かと思った」
「天気図のマーク?」
「うん」
「どうして?」
「見るからに低血圧そうだから」
「はは...当たってるかもしれない」

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 6月最初の火曜日。友達二人が「ボクを励ますため」と称して合コンを企画した。
 ちょうどボクは、3年間付き合ったカノジョと別れたところだった。
 もちろんそれは口実で、彼らは、お目当ての女の子たちとお近づきになろうという魂胆。

「人数合わせなんだよね。わたし」と、ボクの正面に座った彼女が、小さな声でボクに言った。
 ショートヘアのボーイッシュな女の子。
 スレンダーな肢体。肌は透き通るように白い。
 レモンイエローのTシャツにベージュのカーディガン、下はデニムにスニーカーという出で立ち。
 横で盛り上がる、というか盛り上げようとしている4人を尻目に、ボクたちは二人で淡々と話した。
 彼女の名前はエル。漢字でどう書くかは聞かなかった。

 二次会に行くという4人と別れて、ボクたちは並んで、咲き始めの紫陽花が街灯に美しく映える道を歩いた。
 空を覆う厚い雲が不気味に蠢いていた。

「ねえ、今夜キミの部屋に、泊めてもらってもいいかな?」
 歩きながらおもむろに彼女が言った。
「近くなんでしょ」
「うん...そうだけれど」とおずおずとボク。
「大丈夫。襲ったりしないから」と言う彼女のほうを向くと、軽く笑みを浮かべている。
「その点はボクも、大丈夫だと思うけど...けど、どうして?」
 その問いには答えずに、彼女は空に顔を向けて言った。
「雨が降ってきそうだね」

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 コンビニで買った烏龍茶と炭酸系のソフトドリンクで酔いを醒ましながら、ボクのワンルームで彼女と話を続けた。
 同性愛者であることをカミングアウトした彼女。
「さっきの話からすると、キミはストレートだよね?」
「ストレートって?」
「自分の性に違和感がなくて、異性を愛するセクシュアリティのこと」
「そういうことなら、そうだけど」

 ペットボトルに残ったサイダーを飲み干すと、ボクは続けた。
「でも、そうだとしたら、キミは今夜をここで過ごすことが不安じゃないの?」
「さっきからキミと話してて、大丈夫だと思った」
「どうして?」
「キミは、プリーツかフレアの可愛らしいロングスカートが似合いそうな、ガーリーな女の子が好きだよね?」
「たしかにそうだけど」
「それにキミは...お父さんが『いただきます』と言うまでは、目の前の美味しそうなお料理に箸をつけないでいられるタイプでしょ?」
 そう言えばその通りだ。
 けれど、レズビアンの女性に「安全なストレートの男性」とお墨付きをいただいて、なんだか不思議な気持ちにさせられた。

 少し開けておいた窓から、濃厚な冷気が入ってきた。
 風が強くなった。木々の梢を揺らす音。路上の落ち葉が渦巻きを描きながら舞い上がる音。

 稲光。少しおいて雷鳴が轟く。
 雨がざあざあと降り始めた。

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 エルの苗字をボクは知らない。
 駅の向こうに住んでいるらしいが、彼女の部屋がどこかも知らない。
 電話番号も知らない。
 スマホのチャットが、唯一の連絡手段。

 ボクは大学を出て2年間勤めた会社を辞めて、近所のスーパーでアルバイトをしていた。
 最初は短時間から始めて、貯金の目減りに反比例する形でシフトに入る時間を長くした。
 エルに出会った頃は、週6日、朝7時から夕方4時まで昼休みを挟んで8時間、主に商品出しの仕事をしていた。

 エルは、勤務時間が自由になる職場で働いていた。
 ボクが休みになる水曜日には、前の晩から泊まって、そのまま木曜の朝までボクの部屋で過ごすこともあった。
「休んで大丈夫なの?」とボク。
「うん。メールで報告してるし。ここんとこ忙しくてずっと超過勤務状態になってたから、会社的にもこうしてくれたほうがいいみたい」

 梅雨の間、エルは降る雨の中、紫陽花が咲く道をやってきた。
 梅雨明けしても、エルがボクの部屋で過ごしていると、決まって夕立がやってきた。
 部屋の中まで振り込まない限り、窓は閉めなかった。
 湿った空気が部屋に滲み込んでくるのを、そのままにしていた。

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 夏は過ぎ、季節は変わった。
 けれどその年は、なかなか「天高く...」とはならず、雨の多い秋だった。
 エルは相変わらず、低気圧と一緒にやってきた。

 つき合っているお相手のことをエルが話しているとき、ボクは思い切って聞いてみた。
「あの時に、どんなふうなのか...聞いてもいい?」
「えっ? あの時?...そう言われても...」
 少し遠くにやった視線を戻すと、エルは続けた。
「そうね。わたしの場合...余韻の中でやさしく抱き合ったまま、ふんわりと浮かんでいるような感じが一番好き」
「ふうん」
「でも、どうだろう。ストレートの人とそんなに違うのかな?」
「そうなの?」
「わたしは、男の人とは関係を持ったことがないから、わからないけどね」

「さて、わたしにここまで言わせたからには、キミにも聞かせてもらうよ」
 いたずらっ子のような笑みを浮かべてエルが言う。
「そういうつもりじゃなかったんだけれど...ええと、ボクの場合...」
「キミの場合?」
「なんか、無我夢中で突き抜けたら終わり、っていうか...うまく説明できない」
「ふうん。なるほどね」

「ところでキミは『カノジョいない』状態だけれど、大丈夫?」とエル。
「何が?」とボク。
「アシストしてあげようか? わたしでよければ」
 ここに天使がいるよ、とでも言わんばかりの笑みをエルが浮かべる。
「遠慮しておくよ。右手なら間に合ってるから」
「わたしは左利きだよ」
「...」
「冗談だよ」
「わかってるよ」

 雨は降り続いていた。

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「低気圧の周囲では、風が反時計回りに吹き込んで渦になるんだ」
 首都圏直撃の予報を伝えるテレビの台風情報を見ながら、ボクはエルに言った。
 東京から新幹線で1時間半ほどのところにある、ボクたちの住む街は、どうやら直撃は免れるとのこと。
 それでも外は、不規則な荒い息遣いの風に乗せて、雨粒が乱れ落ちてくるようになった。

「時計の針と反対に回るなら、低気圧の中に入れば時間を元に戻せるのかな?」とエルが言った。
「そうだね。コリオリ先生に聞いたらわかるかな」
 ボクは窓を閉めると続けた。
「地球の自転の影響で、コリオリの力というのが働く。低気圧の渦はそのためなんだって」

「チャンネル変えてもいい?」とエル。
「うん。いいよ」
 どのチャンネルも、右下に台風のレーダー画像を映していた。

 情報番組にチャンネルを合わせた。
 男女二人組の音楽ユニットの話題だった。
「いいよねえ。Y」と言って、楽曲の一節を口ずさむエル。
「へえ、Yっていうの」とボク。
「えっ、知らないの?」
「うん」
「それって、マズくない?」
「そうなの?」
「音楽に興味ないとか」
「なくはないけど...好き嫌いが激しくって」

 以前の職場で、当時人気絶頂だった男性ミュージシャンのGについて「好きになれない」と言ったことがある。
 すると、周囲のボクを見る目が、あたかも異星人を見るかのようになった。
 それ以来、最近の音楽は聴かなくなった。

「進んでいく時間には、なるだけついて行ったほうがいいと思うよ。時間を戻せるかどうかはともかく」とエルの総括。
「コリオリ先生どころではないですね」と畏まるボク。

 やがて雨は、「滝のよう」という表現がぴったりの降り方になった。
 地上波のほとんどのチャンネルが、台風情報の特番に切り替わった。

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 11月後半になって、晴れる日が多くなった。
 エルが、仕事の関係で12月初めからしばらく東京に滞在することになった。
 半年くらいの予定だそうだ。

「東京ではどこに住むの?」
「両親のところから通うことにする」
「キミって、東京出身なんだ」と初めて聞かされたボク。
「といっても千葉県だけどね」

「クリスマスは東京で過ごすんだ。お相手と離れて寂しくないの」
「寂しいよ。正直なところ」
 エルの表情が一瞬曇った。すぐに元に戻って続ける。
「東京へ発つ前に、1か月早いクリスマスをやるんだ」
「じゃあ、ボクの出る幕はないね」

 そう言いながら、エルが東京に発つ前の火曜日、ボクはシフト明けの夕方の売り場で、見切り品を買い込んだ。
 部屋にやってきた彼女が、その量に目を丸くした。
「壮行会、だとしてもちょっと多くない?」
「大丈夫。残ったら冷蔵庫に詰めといて片付けるから」
「じゃあ、期限の早いものから先に食べるね」
 缶チューハイで乾杯すると、二人は「値引きシール付きのご馳走」の山に取り掛かった。

 夜半から久しぶりに雨が降り出した。

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<「下」へつづく>


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