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聖書タイム2021年10月:「静まって、神の家族を自分のものに!」

by 山形優子フットマン

山形優子フットマン「いのちのことば社」翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
「とっても うれしいイースター」T・ソーンボロー原作
「おこりんぼうのヨナ」T・ソーンボロー原作

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」
ーーー 詩篇46:10

今月は静かな秋の訪れにふさわしく「静まって」で始まる聖句を選びました。これは口語訳聖書の引用ですが、英語では「Be still 」、つまり「静かに」、「じっとしなさい」、「動くな」という意味です。ちなみに新改訳聖書で「やめよ」、新共同訳では「力を捨てよ」と、それぞれ訳されています。まとめると「今すぐストップ、自力に頼るのはヤメ!じっと静かに!」でしょうか。

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続く聖句は「わたしこそ、神であることを知れ」。神様が、この世のリズムにすっかり巻き込まれている私達に対し、突然、急ブレーキをかけ「しーっ!あなたは神のように振る舞うが、私こそが神で今、あなたのすぐ側にいる」と耳元で囁きます。あなたは、父なる神様をすっかり忘れて1日を過ごしていませんか?あまりにも目まぐるしく、自分中心に、なんでも次から次へと手をつけ、自分にばかり気を取られていませんか。

静まれば、神様とエンカウンターできるのに、なぜ「静まれ」ないの? 自分で動き回り、自力で決断する力を感じないと不安? 自分が自分をコントロールする手応えが無いと恐怖? 神様に自分を委ねることができない等々、もちろん十人十色でしょう。中には「私の人生の主人公は私、自分中心のどこが悪いか!」と怒る人も。でも人には無意識のうちに神様を遠くに追いやろうとする傾向があるようです。そして「神様と向き合いたくない」という後ろ向き志向=罪の性格は誰にでもあります。

旧約聖書の創世記にはアダムとイヴが食べてはいけないはずの善悪を知る木から実を取った後の様子が描写されています。

 「その時、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると」
ーーー 創世記3章8節

さらに9節では「どこにいるのか」と、隠れる二人に、神様の方から呼びかけます。人は困った時、神様に「助けて」「どうにかして」と嘆願します。自分の都合で呼ばわったり、隠れてみたり、全くもって勝手です。それでも神様は人を愛されます。ですから、あなたも自分が愛されていることに自信を持ち、自分もまた神様を愛していることに気づいてください。私たちは、いつの間にか神様との相思相愛関係に、すっかり鈍感になってしまった。神様をこよなく愛した初期イスラエルのダビデ王でさえ、人に対するその愛の深さに感嘆の声をあげます。

「あなたの天を、あなたの指の業を 私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう あなたが顧(かえり)みてくださるとは。」
ーーー 詩篇8章4~5節

少しでも神様に愛されている自分を感じるなら、祈りという手段で、その愛へ返答してみませんか。逆に祈りのない生活を送っているなら、自分から神様との距離をとっている証拠、祈りの有無はその距離のバロメーターとも言えそう。という私も、祈りの習慣を身につけるに長い時間がかかりました。今、振り返ると、本当にもったいないと残念に思います。しかし、何にでも時があり、今はその素晴らしさを少しでも知ったことに感謝し、あなたに祈ることを、お勧めしています。実は今から2000年前、神様は人の祈りが必ずご自分に届くようにと、素晴らしいネット環境を敷かれました。インターネットよりも「アクセス・オールエリア」の途絶えない無料ネット、しかもネットのコストは全て神様持ち。

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まず、父なる神様は、ご自分と人との間を隔てる罪という障害物を取り払おうと、独り子イエス・キリストを世に送りました。キリストは自らすすんで、この障害物を取り去るため、十字架にかかって人類全ての罪を贖いました。その清い血潮が私達の罪の代価となり、その効果は今も続きます。(これが祈りのネット代が神様もちだという点)キリストは死に打ち勝ち3日後に復活、その後、昇天し父なる神様の右に座しています。キリスト昇天後、聖霊がバトンタッチで地上に降りました。キリストの清めの血潮のおかげで、聖なる霊は清いままで「アクセス・オールエリア」に充満可能に、これが祈りが完全に天で聞かれる聖ネット環境。

今は聖霊が活躍される時代です。聖霊は風のように、その辺をふらつく者ではありません。人の中に宿ります。聖霊を迎え入れれば、あなたの体は聖霊が宿る神殿となり、聖霊が、あなたの日常を共に歩んでくださいます。ただし、静まって聖霊を尊重しないと、聖霊の活躍に蓋を閉めることに。旧約聖書箴言1章7節に「主を畏(おそ)れることは知恵の初め」とあるように、祈る時も、いつも、静まって聖霊の愛に応え、聖霊を愛する自分を表現することが大切です。パウロは次のように言っています。

「知らないのですか、あなたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」
ーーー コリントの信徒への手紙1:6章19-20節

ここだけ読むと、神の囚われの身になるような気がして「だから宗教はダメ」という結論を下す人も? しかし、実は、この道こそが、神様とも自由に話り合うことができ、答えもいただける最高に安心な祈りの道筋です。私達が謙虚になれば、聖霊は私たちと一体となり、しっかりと私たちを神の家族の一員に誘う弁護者となってくださいます。ヨハネによる福音書14章26節でキリストは「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方に全てのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と語ります。 

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神の「コア家族」の愛に完全に支えてもらえば、もう怖いもの無し。自力に頼りあがいて疲れることもなくなります。一度その家族の懐に入れば、あなたは、いつも平安で喜びが絶えず、愉快で楽しい「人生の本当の主人公」に。素敵だと思いませんか?それには祈りを通して自分からその関係を深めていくのが肝心、祈りのある生活をお勧めします。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」
ーーー ヨハネによる福音書3章16節